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ブラッド・メルドー トリオ サントリーホール 5.31

控えめにみても神経質そうな顔つきであるなと思う。

しかしその男は落ち着いた表情でピアノの前に座ると、拍手も終わらぬ間にイントロを弾き始めた。シャツの袖に隠れて見えないが、その右腕にはドラゴンの刺青があるはずだ。

初めてブラッド・メルドーを聴いたのは2002年に出たLargoというアルバムだと思う。

当時、日常的に聴く音楽の延長でジャズを聴くというのは、自分にとって少し難しく感じていた。ビル・エヴァンスはハードボイルド過ぎたし、キース・ジャレットは野性味を強く感じてしまう。

新しい音楽を求めている身としては、昔のものを聴いていると、どこか懐古的なコスプレをしているような居心地の悪さがついてまわった。人間の感受性や感傷のあり方というのは時代とともに変わっていくもので、当時の社会、文化が醸し出す情緒とジャズは新旧問わず、どうも食い合わせが悪い気がしたのである。

その例外の一つとして、当時のブラッド・メルドーの音楽には、その満たされなさを埋めるような響きが確かにあった。家の玄関を開けてすぐの壁に、ジャケットのポスターを貼っていたのを覚えている。

2010年以降、グラスパーを始めジャズが復権したのは(大雑把に言うとそういうことになっている)演奏やサウンドと、そこで描かれようとするものが時代ともう一度リンクするようになったからと考えている。

例を挙げるとすると、カマシ・ワシントンは多様性。ルイスコールは多動性とコレクトネス以降の不謹慎。コルトレーンの甥であるフライングロータスは死生観といったように。ただそれより前から、意識的に時代におけるジャズを追い求めたのは、ブラッド・メルドーであると考えている。

当時「レディオヘッドが描くような孤独というのは自分にもよく分かる」とインタビューに答えているのを目にして、素直に感傷的な人なのだなと思ったが、その感受性はもう少し違うものであると後々分かることとなった。

演奏に話を戻すと、ブラッド・メルドーのシグネチャーサウンドといえば、とにかく自由な左手にあると言われる。しかしそれは表層的な技術の話かもしれない。左手が対位法的に右手のメロディーに絡んだり、通常左手で和声を押さえるところを時に右手で和声を奏で、代わりに左手でメロディーを低音で演奏する様は、映画においてテーマとなるメロディーが色々な形で変奏されるところを想起させる。

そのため、決して直情的に弾かない端正なタッチの上で紡がれるのは、何かしらのストーリーの断片のように聴こえる。ブラッド・メルドーの音楽が、高い映像喚起力を持って聴こえるのは、そのようなところに秘密があるのかもしれない。

ベースとドラムとの関係も、インタープレイの掛け合いというよりかは役者に対する照明とカメラのように、そのシーンの構図を変えていく装置のようにも見える。

シンプルな編成ながら「文字だけで書かれた小説にさまざまな表現があるように、ピアノ・トリオで描かれる世界もまた、これだけの可能性がある」と言わんばかりに、驚くほど多くの情景が描かれる。またそこで扱われるハーモニーは、例えば「マイフェイバリットシングス」のようなスタンダードでも驚きをともなう現代的な響きを持ったものに差し替えらている。

その音を聴いていると、例えば「マグノリア」のような群像劇映画を観たときと似たような感触を自分は思い出させられる。それは制約のあるなかで、今自由であろうとする即興の快楽とは別の、陰影を含んだ多種多様な物語の上での響きである。

近年、ジョン・メイヤーと共演したりカントリーグループ、パンチブラザーズのクリス・シーリーと共演するなど、その表現の幅は成熟とともにより広がっている。

それは「社会的にかつてのような主権を失いつつある、現代の白人男性においてどのような美しいストーリーが、これから可能か?」という命題への答えのようにも聴こえる。


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