The Passing

岡本源太。美学者。國學院大學准教授。著書に『ジョルダーノ・ブルーノの哲学──生の多様性…

The Passing

岡本源太。美学者。國學院大學准教授。著書に『ジョルダーノ・ブルーノの哲学──生の多様性へ』(月曜社、2012年)、訳書にジョルジョ・アガンベン『事物のしるし──方法について』(岡田温司共訳、ちくま学芸文庫、2019年)など。http://passing.nobody.jp/

最近の記事

貝の化石

 底に足のつかない深さの海へと、初めて泳ぎ出た日のことを憶えている。幼い頃は毎夏、能登の海に潜って過ごしたものだった。穏やかな浅瀬から離れ、階段を降りるように海底が遠のくこと数回、しだいに海底は深い青色のなかへと見えなくなっていった。あの青色の深さには、いかなる絵具もどんな貴石も——インターナショナル・クライン・ブルーもラピス・ラズリも——けっして達しはしないだろう。どこまでも深く、誰も所有しえない青さは、あの日からずっと瞼の裏にある。  海では大叔父や伯父に連れられてよくサ

    • ウェブサイト

       二〇二四年に入れば、ウェブサイトを開設して二十年が経ったことになる。ずいぶん変わったように思う。ウェブサイトそのもののデザインは当初からほとんど変わっていない——ページやブログの入替ほどだ——が、僕は京都から、パリ、岡山、ローマ、そして東京へと移ったし、インターネットは開放的なワールドワイドウェブから閉鎖的なソーシャルネットワーキングサーヴィスに遷りつつある。オンラインで注意経済がいよいよ猛威を揮うなか、僕はコンピュータをしだいに使わなくなってきてもいる。  ウェブサイトの

      • ロッキングチェア

         読書では、ひとたび夢中になってしまえば、自分がどこにいるかなど忘れてしまう。ふとしたはずみに我に返って、どこにいるのか分からずに注意がさまよう。その宙に浮いたような感覚は、他に喩えようがない。  とはいえ、読書に適した場所、あるいは適さない場所というものがある。これは本の好みに劣らず十人十色だ。凝りに凝って書斎を整えたのに、喫茶店に行かないと読めないという人がいる。喫茶店など論外で、狭い家の台所で立ち読みするという人もいる。就寝前の寝床でしか読まない人もいれば、居間のなかを

        • クロッキーブック

           幼い頃、父母とはまた別に、祖父や祖母に特別な親しみを感じることがあるものだ。僕にとってそれは父方の祖父であった。だがさらに、それより会うことはずっと少ないにしても、秘密の約束めいた共感を覚える親族がいることもあって、僕には大叔父——母の叔父で祖父の弟——が、そして大叔母——父の叔母で祖母の妹——がそうだった。  その大叔母のことを思い出す。彼女は幼い僕にクロッキーブックをくれた人だった。いまでも手に入るマルマンのクロッキーブックだったと思う。紅色や桃色の円の浮かび上がった表

          あかんべえをする太陽

           いつから本を読み始めたのか、記憶はさだかでない。文字が読めるようになる頃には、本を開く習慣は身についていた。絵本が本でないなどと言わないでほしい。一枚の写真が残っていて、そこに写っている赤ん坊は、眼前の絵本に描かれた太陽の身振りを真似している。そのようにして、僕は本を読み始めたのだった。  もっとも、初めて本を読むのに夢中になったことは、記憶にはっきりしている。小学校の図書室の棚に並んでいた伝記の叢書を、端から順に読み尽くしたのだった。それはよくある子供向けの偉人伝のたぐい

          あかんべえをする太陽

          イメージにおける自然と自然の「大分割」を超えて──イメージ論の問題圏(三)

          1 一八九五年から翌一八九六年にかけてのアメリカ旅行中、美術史家アビ・ヴァールブルクはニューヨークで人類学者フランツ・ボアズと交流したという。美術史と人類学の象徴的な出会いとして、ときに引き合いに出される出来事だ。実際、今日「イメージ人類学」と称される美術史のアプローチの鼻祖としてヴァールブルクが再評価される一方、ボアズは人類学の観点から芸術研究を手がけた最初の一人として確固たる地位を得ている。  とはいえ、美術史と人類学はつねに手をたずさえて歩んできたわけではない。およそ西

          イメージにおける自然と自然の「大分割」を超えて──イメージ論の問題圏(三)

          眼差しなき自然の美学に向けて──イメージ論の問題圏(二)

          1 イメージのアナクロニズムは自然と文化の分割を横断する。このことを示唆したのは、ユベール・ダミッシュだった。コンラート・ローレンツやアドルフ・ポルトマンをはじめとして、動物の美しい外観を研究した動物学者は幾人もいるが、ダミッシュは彼らの試みを芸術作品の歴史性の問題にさりげなくつなげてみせた。 なによりもまずコーラルフィッシュの「美しさ」こそが、ローレンツにその魚への関心を抱かせ、なぜ鮮烈な色彩を呈しているのかを解明する試みに導いたのだった。いま主流の実証主義は、過去の芸術

          眼差しなき自然の美学に向けて──イメージ論の問題圏(二)

          囚われの身の想像力と解放されたアナクロニズム──イメージ論の問題圏(一)

          1 アメリカの世界貿易センターのツイン・タワーが崩れ落ちて十年、ニューヨークでは二〇一一年九月一一日から、まさに『セプテンバー・イレブン』と題された現代美術展が開かれた(MoMA PS1、二〇一二年一月九日まで)。とはいえ、ピーター・イーリーのキュレーションによるこの展覧会には、その率直なタイトルとは裏腹に、九・一一を直接に主題とした作品は一点を除いてまったく展示されなかったという。クリスト《赤い梱包》(一九六八)やサラ・チャールズワース《身元不明の女性、ホテル・コロナ・デ・

          囚われの身の想像力と解放されたアナクロニズム──イメージ論の問題圏(一)

          イメージの思考、ほとんど何でもないもの──私の研究

          1 卒業論文がリュック・フェラーリの音楽作品を分析するもので、修士論文ではウラジーミル・ジャンケレヴィッチの時間論がとくに導きの糸になり、博士論文はジョルダーノ・ブルーノの人間論をめぐる考察であった。ミシェル・セールの哲学に共感を覚え、ユベール・ダミッシュの美術史学に感銘を受けてきた。ミシェル・ド・モンテーニュの書物に愉しみを見いだし、吉田健一の文章に寛ぎを感じる。  そこにどんな一貫性があるのかと尋ねられるたびに、いつも困惑した。一貫性などなく、ただそのときどきの興味にした

          イメージの思考、ほとんど何でもないもの──私の研究

          人文学、多言語主義、自由検討

           私は今後、世界のすべての言語の面前で、それらの生成が脅かされていることに悲痛な郷愁を覚えつつ書く。それらの言語をできるかぎり多く知ろうとするのは無駄だと思う。多言語主義は数の問題ではない。想像界のありようの一つだ。表現するのに使う言語のなかで私は、たとえその言語だけを引き合いに出すとしても、もはや単一言語的には書かない。  諸言語を「保ち」、摩耗と消滅から救うことは、そうした想像界を構成することであって、それについて多くを語らねばならない。一つの言語が明日にも滞りなく普遍語

          人文学、多言語主義、自由検討

          芸術は誰のものか

          『レ・ミゼラブル』の中に次のような一節がある。「もはや希望がなくなったところには、ただ歌だけが残るという。マルタ島の海では、一つの漕刑船が近づく時、櫂の音が聞える前にまず歌の声が聞えていた。シャートレの地牢を通って来た憐れな密猟者スユルヴァンサンは『私を支えてくれたものは韻律である』と告げている。」  詩が有用か無用か、それは論ずるにまかせて、それがこうした涙の中に事実存在しつづけたことに対して、私たちの深い関心がある。 ──中井正一 1 芸術がなくとも人間はすぐさま死ぬわ

          芸術は誰のものか

          研究指導の規則

           かくして私は、論理学を構成しているおびただしい数の規則の代わりに、守ることを一度たりとも怠らないという固く恒常的な決心をするなら、次の四つの規則で十分だと思った。  第一は、私が明証的に真だと認めるのでなければ、何ものも真として受け入れないこと。つまり、注意深く即断と偏見とを避けること、そしてまったく疑う余地がないほど私の精神に明晰かつ判明に現れるもの以外は、私の判断のなかに取り入れないこと。  第二は、私が検討する難問をそれぞれ、できるかぎり多くの、しかもそれらをうまく解

          研究指導の規則

          理論研究と歴史研究をめぐる方法論的覚書

          1 芸術作品に対して(あるいは他のどの文化事象や社会事象でも同様だが)理論的にアプローチする際の最大の危険は、自分があらかじめ抱いている図式に当て嵌まるもののみを選んでしまうことだ。そこには何の発見も洞察もない。既知のものの複写であり、さらに悪いことには、芸術の(あるいは事象の)消去だ。自分の思考の枠組みのなかに一切の対象を整理していくだけで、対象との出会いによって揺さぶられることのない論述方法に代えて、むしろ論じる対象にあわせて視点と視野も動くような論述方法が必要だ。しかも

          理論研究と歴史研究をめぐる方法論的覚書

          過去に触れる、身振りをなぞる──田中純『歴史の地震計──アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』論』書評

           会話をしていて、ふと自分の息継ぎのタイミングがまるで父のそれのようであることに気づく瞬間がある。弟のそれだと、あるいは別の近しい人々のものだと、または眼前の話し相手の呼吸そのものだと、感じるときもある。いずれにせよ、発言の内容以前にまずは呼吸が、どれほど会話の進行を導いていることだろう。人間は言葉や思想などよりもまえに、息継ぎにおいて、呼吸において、他者との関係を築く。しかもその呼吸自体がすでに他者をなぞっている。仕草や身振りについても言を俟たない。本書『歴史の地震計』*1

          過去に触れる、身振りをなぞる──田中純『歴史の地震計──アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』論』書評

          身振りをなぞる──歴史の経験と認識についての試論

          1 岡山大学の岡本源太です。本日は田中純先生の『過去に触れる』*1に触れて触発された考えをお話しして、議論のきっかけを提供できればと思います。  本書は「歴史をめぐる私記」として書かれたとのことで、「私記」という形式でなければ叙述できない「経験」の水準こそがとりわけ問題になっており、まさに感性的経験の分析が本流である美学を専門とする身としては、大いに教えられ、また触発されることになりました。  たとえば、いくつか思いつくままに述べますが、ホイジンガらから引き出される「過去の色

          身振りをなぞる──歴史の経験と認識についての試論

          記憶術の二つの原理──建築の論理学と寓意の修辞学

           伝説によれば古代ギリシアの詩人シモニデスに起源をもつとされる記憶術では、まず一つの建物を思い浮かべ、ついでその建物の部屋や柱や窓や階段などに、憶えておくべき事柄をあらわす寓意的イメージを順に配置していく。こうして古代人は、ことあるごとに必要とされた弁論や演説の機会に、想像上の建物を頭のなかで歩き回りながら、そこに飾られたイメージを心の眼で見て、順次、話すべき論点を思い出していったという。冗長な方法に思えるかもしれないが、現代人にとっての目次やフローチャートやインフォグラフィ

          記憶術の二つの原理──建築の論理学と寓意の修辞学