「お笑い」から遠く離れて~お笑いの批評について

1,イントロダクション

 こんな記事を読みました。

 自分は、前にも言ったが、かつては筋金入りのお笑いファンでした。しかし、最近はあまり観ていないです。何故かと言えば、お笑い自体がつまらなくなってしまったからです。実際に、一人でご飯を食べるときは、テレビのスイッチをオフにし、それから、パソコンを眺めたり、本を読んだり、映画のDVDを観たり、サブスクリプションの配信を観たりしています。最近は、日記を書くようになりました。でも、前日には、何故か東京ダイナマイトのDVDが家にあったので、観ました。

2,何故批評を嫌うのだろうか~自分なりに考えてみた

 前にも言いましたが、実を言うと、M-1グランプリに出たり、ライブに出演したり、お笑いの食事会・オフ会を開いたり、挙句の果てにはお笑いライブを企画したり、とのめり込むほど、お笑いにハマっていました。しかし、昨今の感染症の状況や芸人さんの単独ライブの中止、久々に生のお笑いライブを観て、しっくりこなかったので、お笑いをあまり観なくなりました。お金や時間を費やしすぎて、生活に支障をきたしてしまったのも一つの理由です。

 お笑いライブに出て感じたことは、「向いていない」の一択でした。「好きだから」「人を楽しませたいから」という理由で、誤魔化して出ていた節はありましたが、やはり心が折れてしまいました。ネタも覚えられない、緊張して言葉が出ない、練習不足、そういったものもあります。人も楽しませられない、笑われるままだったら、無理して続けるんじゃなかった、と後悔しています。
 昔は、漫才のネタを、こちらのnoteに載せていた時期がありました。でも、無関心や批判に晒され、多分心の中では、(あいつ、つまらないくせにネタとか書いていやがるよ)とか思われているんじゃないか、と思いました。ネタを見た方が、「自分の言葉や内容で書いていない」「なんか違う」と言われたりもしました。その人は、批判をしていないですが、「批判された」感覚になり、載せるのをやめました。今は、非公開にしています。やはり、プライドが高く、頑固で柔軟性がないので、それが災いとなり、少し疲れたり、嫌な思いをしたりしたような気がします。あと、自分が空っぽだから、こういう活動をしていたような気がします。つまらないアマチュアが、お笑いのネタを作ったり、披露したりするなんて、何の役にも立ちません。あってもなくてもいいような気がします。

 そこで感じたことを言います。
 お笑いの世界は、端的に言ってしまえば、「面白い」か、「面白くない」か、の二分化される世界だからだと思います。「面白くない」と言ってしまえば、そこまでの世界だと思います。近年は、「面白くない」「つまらない」を掘り下げて、「何故面白くないのか」という、深い傷をさらに抉るような批評も見かけたり、匿名性を理由に心無い批判をしたりします。
 エル・カブキのエル上田さんが、上の記事の方に、こんなツイートをリプライしていました。

 なるほど、と思いました。筋金入りのお笑いファンは、M-1を予選から観たり、動画をチェックしたりしています。しかし、「M-1が始まるから」となんとなく観る人は、そこまでファンではなく、たまたま見た感じでしょう。それで、どうも合わなかった、みたいな弊害が生まれるような気がします。決勝は10組ですが、M-1グランプリは、5,000組以上エントリーしていて、そのうちの10組(つまり、10/5000組)なのに、決勝だけで見れば、最下位やランクの下層の組は、その修羅場、鬼の住処を潜り抜けたにも関わらず、つまらない印象を与えてしまいます。何とかしてほしいです。

 最近は、お笑いファンの中にも、あたかも「お笑いのことなら知り尽くしている」と勘違いしている「おわライター」と名乗る人や、勝手に点数を付けて審査員気取りしている人が多くなった気がします。個人でやる分には問題はないのですが、それをパブリックや大衆の目につくようなものでやるのは、甚だ疑問を感じます。批評するのも、少し野暮な気がします。芸人側は、ただ笑わせたい、売れて楽しませたいだけなのに、そこに批評が加わると、うーん、と釈然としない感じがします。
 ただ自分も、実はこっち側、つまり批評する側の人間だったのかもしれません。人に「お笑いを利用している」とか、「楽しんでお笑いを観ていない」と指摘されたりして、それでハッと気づき、お笑いファンを辞めてしまったところがあります。やはり、好きなものを奥底まで見ないと気が済まない性格が災いして、面倒に思えた人もいるのだろうな、と思います。人も離れていき、不快にさせたこともあったり、こちらもしたところはあったので、反省しています。(ただ、これを書いていて、「批評じゃねえか」と批判されそうですが……。)

 今回、M-1グランプリは観なかったです。理由は、かつて負った古傷が開きそうで、拒絶反応を起こしそうだからです。他にも、M-1から目を逸らすために、横浜まで映画を観に行って家に帰るのを遅らせた、後藤明生の小説を読んでいた、などあります。キングオブコントも観ておりません。
 マヂカルラブリーのお二人が優勝した時、「つまらなかった」「低調だった」との多数の声を聞き、こちらは「見なくて良かった」と安堵しました。そして、マヂカルラブリーのネタについて、「あれは漫才じゃない」という論争までに発展しました。変なところに首を突っこんでは、刎ねてしまう可能性もあったり、観ていないのに、「つまらない」というのはお門違いだと思い、ダンマリを決め込んでいました。ちなみに、朝の情報番組で、マヂカルラブリーのお二人が出ずっぱりで、ネタを披露してました。それについては、後で述べます。

3,「漫才なのか」論争

 今回優勝したことにより、「あのネタは漫才なのか、漫才じゃないのか」という論争が発展して、驚きました。

 辞書的な意味だと、こう記載がありました。

 まんざい【万歳】
 ①新年に、えぼし姿で家の前に立ち、祝いの言葉を述べ、つづみを打って舞う者。
 ②ふたりの芸人が、こっけいな話をかわす興行物。かけあいまんざい。
 ▶②は普通「漫才」と書く。
                  ――岩波国語辞典 第二版(1976)より

 元はと言えば、平安時代の芸能から始まったものらしいです。今で言うと、すゑひろがりずのお二人が、鼓と扇子を持って、和と現代をハイブリットさせた漫才をしているのが近い感じでしょうか。

 ②の意味で定義すれば、オードリーやナイツ、おぎやはぎ、サンドウィッチマン、アンタッチャブルなどは、それにあたるんじゃないか、と思います。自分は、オードリーやナイツ、広義の意味で言ったら、コント漫才ですが、おぎやはぎ、サンドウィッチマンやアンタッチャブルの漫才は面白いですし、好きです。彼らは、ボケとツッコミがあり、多少ズレがあっても、会話になっていたり、「かけあい」があったり、と辞書的な意味には反していないような気がします。前回のM-1グランプリ最終決定で、ミルクボーイやかまいたちは、確実に「かけあい」をしていました。ぺこぱも、観客に投げかけたり、問いかけつつも、二人で「かけあい」はありました。

 フットボールアワーやトータルテンボスも、コントは混じっているとはいえど、しっかりとした「かけあい」を見せてくれます。麒麟のお二人の漫才は、田村さんが「スポーツ選手」をやり、川島さんが「実況」するという形をとっていますが、川島さんがボケて、田村さんがツッコミや訂正を入れるので、一応「かけあい」が生まれます。

 ただ、そう考えると、マヂカルラブリーのお二人のネタは、ややそれに反しているのかな、と思いました。確かに面白いです。でも、とある朝の情報番組で観た「つり革」は、自分の受けた印象としては、「かけあい」ではなく、「パントマイムに説明を入れている」ようなものだと感じました。漫才としては、なんか違うと思ったり、萎えてしまった、そんな印象を、自分は受けました。普通、パントマイムは動きのみで楽しませたり、笑わせたりするような気がします。この場合、野田クリスタルさんが、少し説明をして、その場にあった状況を動きで表現し、村上さんが説明したり、ツッコミがあれど、ガヤにしか聞こえない感じがします。「ボケ」と「ツッコミ」ではなく、「パントマイム」と「説明」にしか見えないから、このような論争が起きたのではないか、と思いました。
 確かに、チャールズ・チャップリンの映画に、説明は要りませんよね。ほとんど、音楽と映像(動きや出来事)で、セリフは最小限に抑えられています。そこにナレーションを入れたり、字幕を入れたりしたら、説明が過多になり、悪い印象を与えかねません。そのようなことをなんとなく感じました。

 M-1グランプリからしたら、「とにかく面白い漫才」というあやふやな定義で、審査をしています。でも、それは審査員の好みとかも関わってくるので、少しぼんやりしています。ただ、2人以上がサンパチマイクの前に立ったら、それはもう漫才で、あとは何をやってもいい(ただし、凶器を振り回したり、法に触れることだったり、舞台を汚したりする以外は)という感じになります。でも、しゃべくり漫才が見たいですよね。

 でも、漫才は、しゃべくりの元祖である横山エンタツ・花菱アチャコの出現から、2人で立ち、セリフのみで構成される出し物を行いました。それが昭和5(1930)年になります。漫才は、90年ほどの長い歴史になりました。文学は、多分源氏物語やギリシャ神話、哲学を含めたら、2000年以上の歴史を誇ったり、映画だと、もうすでに凡そ130年の歴史があり、比べものにならないですが、もう伝統芸能といっても間違いないと思います。やはり、長い歴史の中で、批評の対象になったんだな、と思いました。大御所の漫才師(やすきよ、いとしこいしなど)の評伝や本とかも出ているので、それもあるのかな、と思います。
 そう考えると、漫才やお笑いって、凄いな、と思います。また、落ち着いたら見たいですが、お金を浪費しそうなので、そこがジレンマです。

4,終わりに

 とりとめのない感じになってすみません。
 最近、とある芸人コンビが解散しました。自分が、アマチュアでお笑いを齧っていた時代に、たまたま楽屋で衣装に着替えて話しかけました。
 そこで、自分は失礼なことを言ってしまった記憶があります。
 「漫才大会で準決勝行けば、御の字なんじゃないですか」と。確かに、M-1の準決勝は凄い。敗者復活戦があり、テレビに映るのですから。しかし、その人はこう答えました。
 「いいや。やはり決勝に行かないと意味がないんですよ」と。
 準々決勝止まりで、確実に面白かったのに、惜しいコンビが解散してしまったな、と感じました。お笑いから離れた今でも、鮮明に思い出します。なんか寂しく思います。

 昔に、小説家の平野啓一郎氏とダイノジの大谷ノブ彦さんの対談本で、お笑いで違法薬物に手を染める人がなかなかいない、という話題になり、大谷さんが「もう、人を笑わせるっていうことが薬物みたいに快感を味わえるから」と言っておりました。自分も、かつてオードリーに憧れ、漫才師になりたい、と思っていましたが、こういう笑いを与えたいからだったかもしれません。

 しかし、最近は、「やりたいこと」より「できること」を優先して、生きているような気がします。まだ捻くれていて、出来ていないところが多いですが……。かつて、ジュペッゼ・トルナトーレ監督の『みんな元気』という映画を観ました。おじいちゃんになったイタリアの名優、マルチェロ・マストロヤンニの主演作です。そのとあるセリフが印象的でした。

「人を喜ばせるのはむずかしい うまくいかないときもある」
「大人物に育てようとするな 普通の人間になるように育てろ」
――映画『みんな元気』(1990)より

 やはり、人を笑わせるのは、難しいし、それを生業でやるのも、いばらの道だな、と気づきました。
 今は、道を模索中ですが、少しずつ試行錯誤して、道が明けてくればいいな、と思っています。

 それでは。

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