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第41回ろう・難聴教育研究大会でのパネラーを通して


2019年8月25日の真昼,日本大学文理学部キャンパスへ足を運ぶ.下高井戸駅からの商店街を通って.

何故かというと,第41回ろう・難聴教育研究大会が8月24日から25日まで開催されており,私はあるセッションでのパネラーをお願いされたからだ.

あえて言う必要もないが,私はろう者である.かつての人工内耳を装用した経験がある.ある意味,今を生きている当事者だからこそ,話してほしいという意味で登壇を検討された経緯で舞台に立つことにした.

ここでパネラーとして聞いた時の心象,何を言いたかったのか主張したかったことを改めて文字化にして,ここに残そうと思う.


まず,このセッションでは,前から続く正解(答え)が見つからない議論の1つである,”人工内耳は本当に良かったのか?”をテーマになっている.

私の時と比べて,現在ではもう既に早期支援しようと国もやっと教育・福祉・医療を連携させようとしています.

これは良いことだと捉えがちですが,問題点があります.
(ここでは,いくつか取り上げるとキリがないので,キーとなる1つだけ取り上げます)

まず,上記の記事を読んで欲しいのですが,新生児スクリーニングから人工内耳の埋込手術までに至り終えるのが,生後10~12ヶ月になります.

つまり,意思確認できないまま人工内耳を装用させられてしまう倫理的な問題です.

もちろん,人工ペースメーカーなどと違い,厳密に生命危機に関わるものであれば,そうでも良いかもしれませんが,耳が聞こえないだけで生命危機に関わるものではないケースです.(もちろん,生命危機に関わる病気などであれば考える必要がありますが.)

それだけではなく,何故こんなにも音を耳で聞かせるようにしないといけないのか.もう少し別の生き方ぐらい教えてもらっても良いじゃないかって疑問も大学時代から持ち合わせていました.

そんな時に,弊ラボの副ボスである島影さんからの紹介で,神戸アイセンターへ訪問で見た出来事です.

この医療機関は,医療技術にも限界がある,相性もあると充分と言って良いほど言い切るスタイルです.だからこそ,視覚障害者に対して目を少しでも見えるようにするだけではなく,人に合わせてICT技術の使い方を教えたりする取り組みです.

この取り組み様子を実際に説明を受けながら,「これだ」とスッと心から思いました.

ー耳で聞くだけではなく,別の方法で音などの情報を掴みながら生きる方法もあるんだよー

と当たり前のようでみんなで生きやすくするようにする場作りがまず必要ではないかと痛感するほど帰り道でずっと心の中で色々な自分達が話し合っていました.


そもそも,人工内耳の解像度について考えてみてほしい.

人工内耳は,200~8000Hzの音域を20個前後の電極でカバーするようになっている.
しかし,一般人だと,20~20,000Hzの音域を約4000分割(有毛細胞)で聞き分けている.(あくまでも理論の話.)

引用元:太田 岳,任 書晃,日比野 浩,人工内耳の現状と展望,精密工学会誌,Vol.83,No.11,pp.992-995,2017

だからこそ,私はこの世界に対して他の人と分かり合えないのかと絶望しかけた.

それは高校時代から大学時代にかけて常にそんな状態に陥った私だからこそ,尚更この世界はこんなにも生きづらいのかと心の中で泣いてきたこともあります.


そして,近年になって,HCI(Human Computer Interaction)分野でも多様性が溢れる世界にしていくためにはどうしたら良いか様々な技術が開発研究されつつあります.(そもそも,過去からあったが,ムーブメントになったというニュアンス)

そんなムーブメントに逆らえながら人工内耳を強く推奨するのではなく,人々が自分が生きやすいように生きれば良いじゃないかと密かに心の中から訴えながら当事者研究に取り組んでいることを述べたかったのです.


そして,セッションでの最後の質問の意図が最後まで掴みきれないまま閉じてしまったが,改めてこう答えます.

「確かに,人工内耳は口話をうまくさせる効果もあるが,口話がうまくなったことで社会に受け入れられているかと言われたら,また違う.そもそも受け入られているとか満足しているかは気づかないだけで,通じなかったりコミュニケーションが図れなかったら,余計受け入れられていないんだ,満足できないんだと自覚するのが大きいです」


(現在,教育現場で先生を頑張っている曽根さん)

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