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「神様は乗り越えられる試練しか与えない」

突然だけれど、私はサカナクションの岡崎さんの高校の後輩らしい。しかも(私のだいたいの年齢がバレるけど)、私は岡崎さんと在学期間が一年間重なっている。校内で擦違ったことくらいは、たぶんある。

それを知って驚愕した。長らく自分の高校を嫌ってきたため、母校は極楽とんぼの加藤さんの出身校である、ということくらいしか把握してこなかったのだ。

少し前、私は、ツイッターで同じ高校に通っていたかたと知り合った。どこまで訊いていいかわからないので、本名は勿論、年齢はお幾つだとか、私と在学期間が重なっていたか、それも知らない。只、私にとって「同じ高校だった人と関わる」のは、長らくタブーみたいになっていたところがあった。

ちなみに、以前書いたこの記事に出てくる友達が、私と同じ高校だった人で唯一、数年前まで関係を続けていたコ。全日制と定時制で離れていたので、在学当時はお互いにお互いを知らずに過ごしていた。

しかし、この記事の彼女とも疎遠になった今、ほんとうに久しぶりに私は、母校が同じというかたと出逢い、ネット上とはいえお話をした。

正直、嬉しかった。

私は頑なに高校を嫌っていた。そうすることで自分を守りたかった。地方の進学校で落ちこぼれて、クラスでも浮いて、勉強も出来なければ部活でもダメ扱い(実際ダメだったのだけれど)。ゆるゆると病んだ心は、卒業後にかろうじて繋がっていた縁すらも、ぶちっと切ってしまった。私はあの高校と無縁な場処で生きようとした。でないと、自分の価値がわからなくなりそうで、私はずっと必死だった。

そういう私が、大人になってやっと手繰り寄せられたのが、ツイッターで出逢うことのできた、そのかたとのご縁だった。

なんというか、呪いが解けた気がしたのだ。

私はあの高校で「嫌われ者」でなければいけなかった。そう、自分に言い聞かせていたのやも知れない。あの高校が私を嫌っている、だから私は、あの高校を嫌わなければいけない―そんな風に私は、自分に呪いを掛けていたのや知れない。それをその人が解いてくれた気がしたのだ。

けれどもふいに解かれた呪いが、ふと私に母校を検索させた。母校のウィキペディアに、サカナクションの岡崎さんの名前があった。何年か前に何かのきっかけで検索した時には、まったく気が付かなかった。調べたら、私と在学期間が重なっていた。どきどきした。


ふっと、私の中に沸きあがった感情がある。

私は「今の私」で、あの母校の卒業生として、胸を張れるようになりたい。

乗り越えなくてはならない。私はあすこで嫌われ者だった。けれど、私は確かにあすこに居た。三年間、休み休み誤魔化しながら通って、どうにか卒業した。高校生の私まで否定しちゃあいけない。ちゃんと、居たじゃあないか。卒業式にはアトリエBOZのシスター風のワンピースを着て、ちゃんと卒業証書を貰ったじゃあないか。それを何故、恥じなければならない?

そんな私には、どうしても母校にこの私の爪あとを残したい理由がある。実際、無意味に私を虐げた同級生も居たのだ。子どもなんて常にそういうもの、なんとなくで人を虐げてしまう。というかそれは、大人になったってやる人はやるから厄介なのだ。とにかくまあそれは重々理解している。けれどもやっぱり、思春期についた傷はそう簡単には癒えない。

それを自力で癒すには、私が良きことで有名になる必要がある。はっきり言ってしまえば、私も自分のバンドをある程度有名にして、母校のウィキペディアに名前を残したい。「あすこの高校、岡崎さんの他にもミュージシャン出してるのかよ、すげえ!」と誰かに言われたいし、「あいつ、今あんなに凄いことやってるんだな、」と同級生に感心されたい。何なら、ちっとも仲良くなかったのに「私、桃胡さんとは高校時代にすっごく仲が良かったの☆」なんて、同級生の誰かに一方的友達宣言をかまされてみたい。

その為にはえらい努力が必要なのだけれど―生きていく上で、こういう流れになったのも、きっと「神様が与えてくれた試練」というやつだろう。

タイトルは、高校時代に私がとてもとても尊敬していた、元バレーボール選手の吉原知子さんがどこかでおっしゃっていた言葉。彼女は30歳を超えてから全日本のキャプテンとなった。私も自分の人生をかけて、この試練を乗り越えねばならないと思っている。

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