[いだてん噺]オリンピック
絹枝が岡山高等女学校に入学した大正九年(1920年)、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック大会が開催された。
日本がオリンピックに初めて参加したのは、明治四十五年(1912年)にスウェーデンのストックホルムで開催された第5回オリンピック大会からであった。
国際オリンピック委員会 会長クーベルタン男爵からの参加の誘いを受けてのことだ。
参加選手は短距離走・三島弥彦とマラソン・金栗四三のわずか2名。
旅費・滞在費は全て自費で、国からも大日本体育協会からも補助はなかった。
5月16日に東京新橋駅を出発し、翌日の朝に敦賀に着いたあと、午後に敦賀港から出航する汽船に乗り、ウラジオストックに向かう。
5月19日にウラジオストックに到着した後、シベリア鉄道でサンクト・ペテルブルクを目指す。
サンクト・ペテルブルクから再び船でストックホルムへ。
当時はこれが最短コースであった。
6月2日に三島弥彦と金栗四三はストックホルムに到着した。
長い旅を経た日本初参加のオリンピックだったが、その結果は苦いものであった。
三島弥彦は7月6日の100メートル走で予選最下位、7月10日の200メートル走も予選最下位。7月12日の400メートル走は疲労の為、準決勝を棄権している。
7月14日のマラソンは、競技参加者から死者がでるといった炎天下のもと行われ、金栗四三は途中棄権となっている。
1916年にドイツのベルリンで開催予定だった第6回オリンピンク大会は、第一次世界大戦のため中止となった。
そして1920年、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック大会が開催された。2回目のオリンピック参加となる日本は、陸上、水泳、テニスに選手を送り出した。
テニスのシングルスで熊谷一弥が銀メダルを、ダブルスで同じく熊谷一弥と柏尾誠一郎が銀メダルを獲得する。
日本がオリンピック大会で初めて手にしたメダルである。
この当時、女学生の間で最も好まれていたスポーツは軟式テニスだった。
絹枝も岡山高等女学校の4年間、軟式テニスに夢中になった。
■参考資料
●『二階堂を巣立った娘たち』 勝場勝子・村山茂代:著
●『人見絹枝―炎のスプリンター (人間の記録)』人見 絹枝:著、 織田 幹雄 ・戸田 純:編集
●『1936年ベルリン至急電』 鈴木明:著
●『オリンピック全大会』 武田薫:著
●『陸上競技百年』 織田幹雄:著
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