西暦で見た幕末・維新(15)~賢侯、福井藩・松平春嶽と蘭学者・勝海舟の意見書~

【■はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


老中首座・阿部正弘あべ まさひろが広く求めた日本の今後の方向性に関する意見で、もっとも多かった『現状維持、すなわち鎖国政策を維持=ペリーの要求は拒否』の中で、幕末の四賢侯の一人と言われた福井藩藩主松平春嶽まつだいらしゅんがく が出した意見書を紹介したいと思います。
(ただし、これは松平春嶽まつだいらしゅんがく 個人の意見ではなく、福井藩で議論した結果として出されたものとみるべきだろうと思います)

●この段階では、アメリカとの闘いを覚悟してペリーの要求を断固拒否しなければならない。
●諸大名に妻子の帰国を許す
●将軍や幕閣に対する献上品や進物は全廃
●参勤交代を隔年ではなく3年か4年に一度に改める(諸大名に妻子の帰国を許す)

要するに妻子を江戸においたままでは諸大名は国元で海防に専念できない。献上品や進物の費用をカットしさらに参勤交代に要する費用を減らして、その分を軍事費に回せば軍備を充実させることができる。
「越前福井藩主 松平春嶽」より抜粋・引用

幕末の四賢侯の一人として謳われた松平春嶽まつだいらしゅんがく と福井藩の藩論ですが、軍事費の捻出に参勤交代の期間を開けるということに関しては、薩摩の島津斉彬も同様の意見であったと思われます。

外様大名にとって参勤交代は藩財政を締め付ける大きな要因であり、海防に専念しようにもその費用をいかに捻出するかという課題を解決するためには必要不可欠なものでした。
同時に、徳川家の親藩であったがゆえか、松平春嶽まつだいらしゅんがく をしても、この当時は、この意見が彼と福井藩の限界であったということになるのでしょう。

一方、幕臣(御家人)とはいえ、家禄百俵取りで無役であった『蘭学者』、勝麟太郎かつりんたろう(以下、勝海舟かつかいしゅうと記載)。

勝海舟かつかいしゅうを「蘭学者」と言うと違和感を覚える方もいるかもしれませんが、当時現在の東京港区に『氷解塾ひょうげじゅく』という塾を開いていました。
もっとも塾だけでは生計は成り立たず、オランダ語書物の翻訳もしていたそうです。

その勝海舟かつかいしゅうが幕閣(海防掛かいぼうがかり)の目に留まるようになったのは、二通の建白書を幕府に提案してからです。
ここでは今後日本が進むべき方向性を5つの箇条書きで示した第二の提案書の要旨について、『ペリー来航』より、以下に抜粋します。

第一に外交担当の役人に有用な者を登用すべきと述べ、外交担当者と老中がよく議論することが必要であるとした。

第二では軍艦建造が必須であることを示し、清国・ロシア・朝鮮などへ貿易船を送り、その利益で軍艦を建造せよとした。

第三では外国船の砲艦射撃から国土を守るために海岸に大砲を備えよと提案し、第四では旗本の軍備をすべて西洋風の兵制に改めよとした。

第五では火薬の原料である硝石を人工的に製造する場所を設置することを求めた。

勝の提案は貿易の開始や西洋式の兵制導入など富国強兵を求めたものであり既成の意見にとらわれないプランの提示であった。
ペリー来航

おそらくですが、松平春嶽まつだいらしゅんがくの意見書が福井藩藩士の様々な意見をくみ取ったものであるように、勝海舟かつかいしゅうの建白書もまた、すべてが勝自身の独創というよりは、他の蘭学者たちのつながり、または親交のあった(というか勝の妹と結婚した)佐久間象山さくましょうざん、生計のために翻訳したオランダの書物などから得た見識・知識をくみ取って構築されたものではないかと思います。

いずれにせよ、幕末において、たびたび名前の出る両名がこの時点では、ここまで異なる意見だったというのは、立場が大きく違うとはいうものの、興味深いものがあります。


■引用・参考資料

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