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[歴史の断片]存在しなかった悪意ー取り付け騒ぎー1973.12.13~15-(3,520文字)

昭和の初め、2つの恐慌パニックの波が日本を襲います。
ひとつめは昭和金融恐慌、ふたつめは世界大恐慌です。

昭和の幕開けに起き、昭和史に暗くて深い爪痕を残した2つの恐慌について資料を読んでいたのですが、経済界ばかりではなく政治家の暗闘や軍人の動きなど、実に多岐にわたって知ることが多く、その全容はなかなか理解できません😵‍💫。

金融恐慌だけとっても、その源は、第一次世界大戦時に日本で発生した空前の好景気バブル(「成金」という言葉を産みました)にまでさかのぼり、バブル崩壊の象徴である関東大震災を経て、昭和になって表面化したもので、時の蔵相の失言だけがすべての原因ではないのです。
そしてこの2つの恐慌は、その後の太平洋戦争の一因になったように、ボクは思えます。

しかし、歴史の教科書では、今も、原因の源流まで遡ることはなければ、その後の影響を見ることも無く、ただ単に『蔵相の失言を引き金に昭和金融恐慌が起きた』程度の説明に終わっているのではないでしょうか。

歴史とは、相互関連の無い単独の出来事スタンドアローンの集合体ではなく、因果関係のある出来事よって起きる、うねりに似たものではないかと思うのですが、それゆえ大きな出来事の全容はなかなかわかりません😵‍💫。

それに比べれば、今から50年前の1973年12月に愛知県で起きた信用金庫取り付け騒動は、限定された地域の中での出来事で、その後に調査されていて、ネットでもその経緯がある程度分かるので、助かります。

というわけで、信用金庫取り付け騒動について、なぜ取り付け騒ぎが起きたのか、そしてどのように収束したのかを、見て行こうと思います(≧▽≦)ノ。

1973年(昭和48年)。
後に、高度成長期が終わった言われるこの年。
物価高、公害問題、買い占め、物不足、そしてオイルショック等、社会的に不安を喚起させる出来事が起きていました。

好況から不況へー。
成長から停滞へー。
未来への期待から漠然とした不安へー。

戦後日本が大きな曲がり角に差し掛かった時期だったと言えるのかもしれませんー。

■発端

1973年(昭和48年)12月8日(土)ー。
取り付け騒ぎの発端は、登校中の電車の中における、女子高生3人組の会話から生まれました。

T信用金庫への就職が決まっていたひとりが、他のふたりにそのことを話したところ、ふたり(ひとり?)が、『信用金庫は危ないわよ』と冗談を言いました。

この『危ない』は、就職先の信用金庫の経営についてではなく、『信用金庫は銀行強盗が入るかも知れないから危ないわよ』という冗談によるものでした。
決して特定の信用金庫を指したものではなく、広く金融機関を指したものだったようで、そこに明確な悪意はなかったとされています。

言った本人にすれば、『え、銀行?銀行は強盗が来るかもしれへんから危険な職業やん』『ンなわけあるかいなんでやねん』といった、軽い気持ちの冗談だったのでしょう。

しかし、T信用金庫への就職が決まっていた女子高生は、冗談と思わずに受け止め、その夜に親戚(おば)に『信用金庫は危ないの?』と聞いたのでした。

■拡散

女子高生の言う信用金庫を、就職先のT信用金庫だと限定して思い込んだ親戚は、T信用金庫の近くに住む親戚にそのことを確認しました。

もともとは広く金融機関をさしていたものが、T信用金庫に限定され、また『銀行強盗に入られるかもしれないから危ないわよ』という荒唐無稽な冗談が、『T信用金庫の経営が危ないらしい』という、なんら根拠がないにも関わらず不安感をかきたて、最悪の事態を連想させるものへと、情報の変質が発生したのです。

確認を求められたT信用金庫の近くに住む親戚は、知り合いの美容院経営者に、具体的な根拠はないのに、『T信用金庫が危ないらしい』と推測の情報を流します。

そして、美容院経営者が、自分たちの親戚にそれを伝えた際、その場にたまたま居合わせたクリーニング業者がそれを耳にし、妻に伝えました。

実体のない噂から、物理的な行動を伴い実体化するに至る転換点というものがあるとしたら、転換点は1973年(昭和48年)12月13日(木)だったのかもしれません。

■転換点

1973年(昭和48年)12月13日(木)ー
この日、美容院経営者が親戚にT信用金庫の噂を話しするのを耳にしていたクリーニング業者の店にやってきた客が、たまたま電話を借り、『T信用金庫から120万円おろしといてくれ』と電話で指示をしました。

後にわかりますが、この客は、T信用金庫に関する噂を全く知りませんでした

あくまでも仕事で必要なお金を下ろしてほしい、という指示にしたにすぎませんでした。

しかし、客の電話での言葉を耳にしたクリーニング業者の妻は、数日前に夫から聞いた『T信用金庫が危ないらしい』という情報を、それと結びつけてしまったのです。

クリーニング業者の妻は、『T信用金庫が危ない』からこそ、この客は120万円を降ろそうとしているのだと思い込みます。

そして夫を通じて『T信用金庫』から180万円を降ろしました。

■実体化

クリーニング業者とその妻は、20人程度の知人に、『T信用金庫は危ない』という噂を広めます。

7年前に隣町で金融機関の破綻があり、クリーニング業者とその妻はその被害を被っていたということもあり、2人にとっては、預金者が被害を被らないための善意の行動だったのでしょう。

20名の中に、アマチュア無線愛好家がおり、アマチュア無線を通じてこの噂が広がり、町中のだれもが『T信用金庫は潰れる』という根拠のない断定形の噂を知るに至りました。

この町に金融機関は『T信用金庫』しかなく、町の人々にとって、等しく資産の運命を共有するものだったことも噂の拡散を速めたのでしょう。

12月13日のこの日、『T信用金庫』に59名の客が来て、約5000万円が引き出されました。根拠のない噂が実体化したのでした。

1973年(昭和48年)12月14日(金)。
T信用金庫は緊急対策として、”経営上について不審のある方は2階へ上がって下さい”と張り紙をだしました。
デマであることを説明しようとしたのです。

しかし、それは預金者には曲解され、2階で倒産整理の話し合いがされるのだと不信感を増大させるだけのものとなり、すぐにビラは撤去されました。

パニックに陥った預金者たちは、押しかける預金者を整理するために来た警察官を見て強制捜査に来ていると思い込んだそうです。

『原因は行員の使い込み』、『理事長が自殺した』など、さらに根拠のないデマが生れ、事態は混乱の度合いを深めていきます。

■沈静化のための対策

T信用金庫は、マスコミ各社に依頼し、これは根も葉もないデマであるという記事を出してもらいます。

当時は今よりももっと新聞の情報には、権威と信ぴょう性があったことでしょう。
14日の夕刊から15日の朝刊にかけて、新聞社各紙は記事を掲載します。

読売新聞をみると、12月15日朝刊に『デマに躍らされ信金、取り付け騒ぎ 愛知▽日銀、折り紙▽人の心もフェーン現象』の見出しがあります。

日本銀行も動きます。
日本銀行は記者会見を行い、「T信用金庫の経営は問題なし」と声明を出し、さらに日本銀行名古屋支店から現金の手当てを行ったことも発表しました。

日銀から手当された現金(札束)は、預金者にも見えるようにT信用金庫本店の金庫前に山積みされました。

物理的に現金(札束)の山を見せることで、日本銀行の言ったことが裏付けされ、安心感を取り戻した預金者もいたでしょう。

12月15日読売新聞の夕刊に『引き出し14億円 ようやく平静に』と見出しがあることから、14億円もの引き出しがあったものの、15日の午後に事態は沈静化へと向かったものと思われます。

『火のない所に煙は立たない』(意味:「根拠が全くなければうわさは立たない」、「うわさが立つからには多少でも事実があるものだ」)というもっともらしい言葉がありますが、必ずしもそうではないことを、繰り返し歴史が示しています。

火が無くても、それを火だと誤って認識したときに、それは実体化し、火が生まれます。

ネットワークが発達した今、溢れる情報から真実を見極めることは、日に日に困難さを増しています。

今や国家の権威は陰謀論の前に失墜し、耳に心地よい意見が広く支持される傾向が強くなっていく世界で、歴史から何を学ぶか、いつも課題をつきつけられているような気がしてなりません🤔。


■参考・引用資料
●「取り付け騒ぎ」に関する理論的・実験的分析と 事例との整合性に関する考察(https://www.eco.nihon-u.ac.jp/center/economic/publication/journal/pdf/49/49-07.pdf

●読売新聞 1973年12月15日朝刊・夕刊

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