【幕末維新 紳士録】-02- 卵かけご飯だけの人じゃない、岸田吟香(3,410文字)
■岸田 吟香(1833年~1905年)
幕末維新 紳士録、すっかり忘れていて、半年以上あいてました~💦。
ヘボン博士と関わりの深かった日本人、岸田 吟香さんを紹介させていただきます😆。
ということで、問題です。
卵かけご飯を日本に広めた人はだれでしょうか?
はい、正解は岸田 吟香さんです😆。
もうタイトルでバレバレですが、岸田 吟香さんは、決して卵かけご飯を広めただけの人ではありません。
岸田 吟香さんの故郷、岡山県久米郡美咲町には岸田吟香記念館もあります。
まぁ、卵かけご飯を広めた方というパワーフレーズがどうしても使われてしまいますが。
岸田 吟香さんは、1833年5月26日(天保4年4月8日)に、美作国 久米北条郡垪和村(現在の岡山県 久米郡 美咲町)に生まれました。幼名は太郎。のちに銀次となります。
父の岸田秀治郎は農業の他に製造業も営んでいました。
神童と呼ばれた岸田 吟香さんは、14歳のときに、津山の儒者、昌谷精渓に漢学を学びます。
そして17歳で江戸に上り、林図書頭の塾に入いります。
病気の為一旦帰国しますが、1856年(安政3年)に再び江戸に戻り、儒者・藤森弘庵に師事します。
ところが、師匠の藤森弘庵が尊王攘夷の志士、梁川星巌、梅田雲浜らと攘夷を主張し、安政の大獄で捕えられてしまいます😮。
そして、その門下生だったという理由だけで岸田 吟香さんも、その一味であろうと嫌疑をかけられます。
「わたしは、師事してただけなのに!ヽ(⦿_⦿)ノ」
岸田 吟香さんが、そう主張しても誰も聞いてくれません。だって、それが安政の大獄だから!。
身の危険を感じて、岸田 吟香さんは潜伏します。
身を隠して、一時期、深川の妓楼に雇われていたこともあり、このとき、「気ままに生きよう」という意味をこめて、『ままよの銀』と名乗っていたことから「銀公」とよく呼ばれ、それが後の吟香の号の由来になったそうです。
1860年3月24日(安政7年3月3日)におきた井伊大老暗殺事件、いわゆる『桜田門外の変』以降、幕府からの追及の手もなくなったようですが、岸田 吟香さんは江戸に戻らず、横浜へと移動します。
そして横浜で、風眼という目の病にかかった岸田 吟香さんは、美作国出身の洋学者・箕作秋坪に、相談しました。
『それなら、横浜にいるヘボン博士に診てもらうといいよ』と、ヘボン博士を紹介された岸田 吟香さんは、ヘボン博士から治療をうけます。
一週間ほどですっかりよくなった岸田 吟香さんですが、ヘボン博士は治療期間中に岸田 吟香さんと会話をする中で、その漢学の知識の深さを見抜き、『治療代はいいから、その代わりに私の助手をしてくれないか』と提案します。
実は、ヘボン博士は和英辞書の編纂をしており、漢学に通じている岸田 吟香さんの才能は、和英辞書作成に必要と感じたのですね。
(もっとも、岸田 吟香さんは、医学の知識がないのですが、ヘボン博士の助手として治療の手伝いなどもしています)
しかし、英語の語学力が不足していることを痛感した岸田 吟香さんは本腰をいれて英語を学ぼうと決意します。
『横浜に良い英語の先生はいないでしょうか、ヘボン博士ヽ(⦿_⦿)ノ 』
『じゃ、わたしの知り合いのジョセフ・ヒコから教えてもらったら?('・ω・)』
ヘボン博士はジョゼフ・ヒコを紹介します。
漂流してアメリカ船に助けられ、アメリカで教育をうけて帰国したアメリカ彦蔵、ことジョセフ・ヒコ(日本名は浜田彦蔵)が当時、横浜にいました。
こうして岸田 吟香さんは、ジョセフ・ヒコから英語を学びます。その時に、ジョセフ・ヒコから『アメリカには新聞紙というものがある』と聞き、同じ英語を学んでいた本間潜蔵も加えて、三人で日本語の新聞発行に取り組みます。
情報元は、横浜で発行されている英字新聞やイギリスから横浜に運ばれてくる新聞です。そこから重要な記事をピックアップして日本語に訳して記事をつくりました。
『 おーい、吟香くん、わたしの助手は?('・ω・)』
『おっと、いけない。忘れかけてました、ヘボン博士ヽ(⦿_⦿)ノ』
岸田 吟香さんの本来の仕事はヘボン博士の助手なので、いつまでも新聞にカマかけてるわけにはいきません。
ちょっといろいろありましたが、ヘボン博士の家に住み込み、和英辞書作成に本格的に取り組み始めました。
1866年(慶応2年)、7年の歳月を投入し、ついにヘボン博士の和英辞書が完成します。
『和英辞書の完成、おめでとうございます。ヘボン博士ヽ(⦿_⦿)ノ』
『 いやいや、吟香くん、君の助力があってこそだよ。じゃ、行こうか('・ω・)』
『え?行こうかって、どこへですか?ヽ(⦿_⦿)ノ』
『上海だよ。だって日本には活版印刷所がないからね('・ω・)』
『えっ、上海!わたしもですか?ヽ(⦿_⦿)ノ』
こうして、ヘボン博士と岸田 吟香さんは、上海へと旅立ち、和英辞書の印刷を行います。
翌年の1866年(慶応3年)4月にふたりは横浜に帰りますが、翌1867年から明治が始まります。
『うわー、英和辞書作成を手伝っている間に、日本の夜明けが!ヽ(⦿_⦿)ノ』
ヘボン博士との助手の契約を終えた岸田 吟香さんは、この先、自分はどうすべきか、身の振り方を考えます。
この頃、木戸孝允や寺島宗則らと親交をもち、とくに木戸孝允からは、明治政府の役人になることを勧められますが、頑として断わります。
『この新しい時代に、役人として出世することに汲々するよりも、事業を起こし、民間の発展を促すことが男子一生の仕事である!ヽ(⦿_⦿)ノ』
『 吟香くん、今までありがとう。これは、餞別だよ('・ω・)⊃□』
ヘボン博士は、知り合うきっかけとなった眼病の治療薬(目薬)の処方箋とその製造販売の許可を岸田 吟香さんに与えます。
岸田 吟香さんは試行錯誤を繰り返し、苦労の末、目薬を作り、『精錡水』と名付けます。
そして、明治と言う新しい時代に、新しい技術の事業を数多く始めます。
ある意味、現在のベンチャービジネス起業家に通じるものがあるのかもしれません。
蒸気船の運送会社の経営、「横浜新聞もしほ草」という新聞の発行、製氷業、新潟の石油発掘・・・。
『まぁ、どれも大成功とはいかなかったけどね! ヽ(⦿_⦿)ノ』
そして岸田 吟香さんは、『東京日々新聞』の記者として雇われ、台湾出兵の際には従軍記者として現地に赴き、記事だけでなく、挿絵も自ら描いて、好評を博します。
『あれ、意外と画才があったんだ! ヽ(⦿_⦿)ノ』
しかし、1877年(明治10年)に『東京日々新聞』を退社し、岸田 吟香さんは、目薬『精錡水』などの薬品の販売を始めます。
(自ら新聞広告を出し、目薬『精錡水』を普及させています)
また福祉活動にも取り組み、現在の筑波大学附属盲学校を、同志たちと創設しています。
こうして幕末から明治へと時代の変革期を駆け抜けた岸田 吟香さんは、1905年(明治38年)6月7日に亡くなります。
尚、岸田 吟香さんの四男は、洋画家の岸田劉生です。
『わたしの画才を受け継いだわけだよ! ヽ(⦿_⦿)ノ』
決して、卵かけご飯を広めただけの人ではありませんでした。
■参考資料
『幕末明治傑物伝』 紀田順一郎(著)
『幕末明治新聞ことはじめ』 奥武則(著)
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