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歴史フィクション・幕末Peacemaker 【02】~厄災~(2083文字)

※ご注意※
これは薩英戦争・下関戦争前後の時代を舞台にした小説であり、『殆どフィクション』です。あらかじめご注意ください。


1862年9月8日、横浜に上陸したサトウとロバートソンは、ニール代理公使を尋ね挨拶を済ませたあと、ホテルで船旅の疲れをとった。
翌日、サトウは対岸にある神奈川に案内され、日本語の教師になってくれる、聖書や讃美歌の訳者として知られるアメリカ人宣教師ブラウンと、同じくローマ字と医師として有名な宣教師のヘボン博士を紹介された。

「まず中国語から勉強させられたのかね。わたしもそう思っていた時期があったよ。日本語は中国語の延長だと」
ヘボンは笑みを浮かべてサトウに語った。
「しかし、日本への渡航中に和訳された新約聖書を読んで悟ったよ。日本語は中国語と全く違う、と」
ヘボンは肩をすくめて見せた。
「まぁ、日本語はブラウンによく学びたまえ。ちなみにブラウンと私は、江戸からここ神奈川に来てくれた日本人の鍼灸医、矢野元隆(やのもとたか)から日本語を学んだ」

矢野元隆はその後、宣教師のジェームズ・バラの日本語教師になり、マルコ伝、ヨハネ伝をひらがな表記に訳す作業を手伝っているうちにキリスト教の信仰心に目覚め、肺結核で病の床に伏せていた1865年(慶応元年)に洗礼を受け、その年に亡くなっている。
矢野元隆は鎖国下の日本で、最初の日本人キリスト教徒と言われている。

「私からは、さしあたって3つの日本語を今、君に教えよう」
ヘボンはサトウに言う。

「3つ・・・ですか? (・_・)」

「そう。私がこの国に来て、最初に覚えた言葉だ。『アブナイ』『コラ』『シカタガナイ』だ。覚えておいて損はない」
 
「ヘボン博士、その言葉は、日本における僕らが置かれている立場を表しているような気がしますが・・・ (・_・;) 」

「それともうひとつ、医師として君がサトウ君に伝えるべき重要なことがあるぞ、ヘボン」
ブラウンが口をはさんだ。
ああ、そうだったなとヘボンはうなずき、サトウに言った。

「決して生水は飲まないように。それと衛生面には十分に気を付けたまえ。今、この国はコレラが流行っている。もちろんここでも患者が出ている」

「え? マジっすか (・_・;) 」

1862年(文久2年)、麻疹(はしか)とコレラが日本で流行する。
江戸期においてコレラの流行は3回あり、1862年はその3回目に当たる。

まず麻疹(はしか)が夏に流行った。
江戸期の麻疹流行は10~20年おきのサイクルだったようだが、この時の流行は決して小さなものではなかった。

江戸では「七月半ばに至りてはいよいよ蔓延し、良賤男女この病痾に罹らざる家なし」(『増訂武江年表』)というほどの流行をみることになった。

横浜開港資料館館報 「開港のひろば」第148号より

居留地の外国人向けに横浜で発行された週刊新聞ジャパンヘラルドは麻疹の感染状況報告として、江戸および四宿(日本橋を起点に8km以内の宿場町)における患者数56万7713人、死者数7万3158人と記載し、患者は減少しつつあるという見解を載せている。

続いてコレラが入って来る。
前年の1861年にインドで流行し、インドから香港、南京、上海、天津へと広がっていった。幕府は上海に千歳丸を派遣しており、その随員が感染した。
幕府はすぐさま手を打った。
中国からの船で、『健康状態を証明する書類を持たない船の寄港禁止を7月2日以降各国の公使に通達する』(横浜開港資料館館報 「開港のひろば」第148号より)

7月2日は和暦で、西暦にすると1862年7月28日になる。
英国のニール代理公使はこれを了承するとともに、併せて中国ではコレラ流行は収まりつつあるという最新情報も幕府に伝えている。

しかし、日本にコレラは上陸した。長崎に上陸して拡大していったものと思われる。
文献が多くある為、安政五年頃のコレラ流行に注目がいくが、文久2年のコレラは江戸時代最大の流行とする説もある。

週刊新聞ジャパンヘラルドの9月6日の記事に以下のものがある。

コレラは波のようにこの地を襲っている(中略)江戸の役所では一〇〇の葬列が通り過ぎるごとに橋を清掃することになっている。日本橋だけでは最近一日に四回清められている。(つまり)四〇〇から五〇〇の葬列が日本橋を通過している、と我々は聞かされている」

横浜開港資料館館報 「開港のひろば」第148号より

サトウが来日した時期は、このコレラ流行時期と重なるのだが、なぜかサトウが書いた『一外交官の見た明治維新』には、コレラに関する記述が見当たらない。

安政の流行以降、コレラは外国人からもたらされたものであるとして、日本人の外国人に対する感情は、マイナス方向になったものと思われる。

文久のコレラ流行が、攘夷思想をもつ日本人の、外国人に対する負の感情にプラスされ、その後起きる生麦事件に影響を与えたと言えるかも知れない。

【続く】


■参考文献
『一外交官の見た明治維新』
アーネスト・サトウ(著)

『幕末明治傑物伝』
紀田順一郎(著)

横浜開港資料館館報 「開港のひろば」第148号
横浜開港資料館(編集・発行)

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