[歴史の断片]1945年4月5日(2430文字)

鈴木貫太郎は、80年の生涯のうち、45年間を海軍で過ごしている。
1923年(大正12年)には、海軍大臣への就任を求められるが、これを断っていた。
政治家というものが自身の性には合わない──、自らそう決め込んでいたのだろうか。
その男が国家存亡の危機に際して、1945年(昭和20年)4月7日から1945年(昭和20年)8月17日までの132日間、政治家(首相)として日本を終戦へと導く役割を担うことになる。

鈴木貫太郎の海軍軍人としての最終キャリアは軍令部長であった。
その後、珍田侍従長の急逝(きゅうせい)により、一度は辞退しながらも1929年(昭和4年)、侍従長に就任する。

侍従長時代に起きたニ・ニ六事件で、青年将校から四発の銃弾を浴びるも、奇跡的に一命を取り留めたのは、有名なエピソードである。
1944年(昭和19年)には、枢密院議長に就く。

昭和天皇が、鈴木貫太郎に組閣を命じたのは、1945年(昭和20年)4月5日の夜10時前のことだった。

以下『』内は「鈴木貫太郎伝」(著:鈴木貫太郎伝記編纂委員会)からの引用。


昭和天皇:
『卿に組閣を命じる』

鈴木貫太郎:
『聖旨(せいし=天子のおぼしめし)洵(まこと)に畏れ多く承りました。唯、このことは何卒拝辞の御許しをお願い致したく存じます。
昼間の重臣会議でも、頻(しき)りにこのことを承りましたが、鈴木は固辞したところでございます。
鈴木は一介の武臣、従来政界に何の交渉もなく、また何等の政見も持っておりません。
鈴木は軍人は政治に干与せざることの明治天皇の聖諭をそのまま奉じて、今日までモットーとして来て参りました。
聖旨に背き奉ることの畏れ多きは深く自覚致しますが、何卒この一事は拝辞の御許しを願い奉ります』

昭和天皇:
『鈴木がそういうであろうことは、私も想像しておった。鈴木の心境もよく分かる。
然し、この国家危急の重大時機に際して、もう他に人はない。
頼むからどうかまげて承知して貰いたい』

鈴木貫太郎:
『篤(とく)と考えさせて頂きます』


昭和天皇が『頼むから』と仰せになるのは、異例中の異例と言えるだろう。

鈴木貫太郎の『篤(とく)と考えさせて頂きます』という発言は、組閣について考えますという意味になるだろうか。
いずれにせよ、この言葉をもって鈴木貫太郎は大命を拝受したことになる。

尚、三好徹:著『興亡と夢』では、鈴木貫太郎は「謹んでお受けいたします」と発言したことになっている。

退下(=御前をさがること)後、鈴木貫太郎は、内大臣室に木戸幸一 内大臣を訪ねる。
ここで具体的にどのような会話が行われたか、「鈴木貫太郎伝」には書かれていない。

半藤一利の『聖断』では、鈴木貫太郎が長男の鈴木一(はじめ)に語った言葉として、以下の通り書かれている。

退下してから木戸内府に『大命を拝受したが、どうしたらよかろう』と相談したが、内府は『誰か知ったものがあれば、これに相談して組閣せられては如何』というだけで、別に手助けしてくれるわけではない

『聖断』 半藤一利:著

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上記『聖断』の記述をみる限り、国家存亡の機に、一刻も早く終戦(講和)内閣を組閣すべきなのに、木戸内大臣の突き放したような発言に違和感を感じてしまいます🤔。

(後継首相を選考する重臣会議の席上で、鈴木貫太郎を推したひとりが木戸内大臣だったので、なおさらですが)

組閣人事に協力することで、後々に責任が、自身に波及することを避けた、保身的発言と解釈するのは、うがった見方でしょうか🤔。

一歩間違えれば、組閣ができず鈴木貫太郎内閣が成立しない可能性もあったので、その時はどうするつもりだったのでしょう😵‍💫。
(もっとも、木戸内大臣が積極的に組閣の手助けしなかったことが、結果的に幸いしたと思いますが)
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鈴木貫太郎が自宅に帰った時、夜の11時を過ぎていたという。

『困ったことになった』とつぶやきながら居間に入った鈴木貫太郎は、帰りを待っていた長男の鈴木一(はじめ)に、一部始終を話す。

鈴木一(はじめ)は、「一旦お受けした以上は、最後の御奉公として君国の難に殉ずるのほかはない」と励まし、翌日の朝には、「(農商省山林局長を辞めて)秘書官としてお助けします」と申し出たのだった。

侍従長として仕えた鈴木貫太郎は、昭和天皇の思し召しがどこにあるか、理解していたという。後に『終戦の表情』で、以下の様に語っている。

一言にしていえば速やかに大局の決した戦争を終結して、国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、また彼我ともに、これ以上の犠牲を出すことのなきよう、和の機会を掴むべしとの思し召しと拝された。

もちろん、この思し召しを直接陛下が口にされたのではないことは、いうまでもないことであるが、それは陛下に対する余の以心伝心として、自ら確信したところである。

『終戦の表情』鈴木貫太郎:著

[但し、歴史学者の古川隆久氏は、この時期の昭和天皇は、『一撃講和論者』であり、ドイツ降伏後に『早期講和論者』となり、最後は自らの命の危険をかえりみず『即時終戦を決断する』ようになったとみている。
鈴木貫太郎の記述は、『終戦の表情』が書かれた当時の政治的状況を考慮する必要があるのかも知れない。]

「一刻も早くこの戦争を終わらせる」──、そのために鈴木貫太郎がまず最初に着手すべきは『組閣人事』だった。

しかし、鈴木貫太郎には海軍や陸軍に知己(ちき=親友)はいても、政治とは距離を置いてきたため、政治家の知り合いがほとんどいない状態であった。


■引用・参考資料
 「鈴木貫太郎伝」(著:鈴木貫太郎伝記編纂委員会)
 「終戦の表情」 (著:鈴木貫太郎)
 「大日本帝国最後の四か月」(著:迫水久常)
 「宰相鈴木貫太郎の決断」(著:波多野澄雄)
 「昭和天皇」 (著:古川隆久)
 「聖断」 (著:半藤一利)
 「興亡と夢」 (著:三好徹)

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