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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(11)~萌芽~(2562文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


老中首座阿部正弘あべ まさひろは(広島県)福山藩藩主(11万石)です。
その先祖には、室町時代末期から江戸時代が始まる直前、いわゆる騒然とした戦国の世に、幼少のころから徳川家康に仕えた(家康より1歳年長の)阿部 正勝あべ まさひろがいます。
まだ幼少の徳川家康が、織田家・今川家を転々としていた時から、60歳で亡くなるまで阿部 正勝あべ まさかつは終生を徳川家康に仕えています。阿部家は徳川家譜代の家臣(譜代大名)となります。

阿部正弘あべ まさひろは六男でしたが、その才を見抜いたのか、父の阿部正精あべ まさきよは、三男の正寧まさやすを藩主にするものの、生前より阿部正弘あべ まさひろを必ず次期藩主にせよと命じ、その遺命を守って、正寧まさやすは1836年、阿部 正弘あべ まさひろに藩主の座を譲り隠居します。
阿部正弘あべ まさひろは1819年生まれですから、当時は17歳か18歳ぐらいでしょうか)
 
徳川幕府の最高職である老中は、2万5000石以上の譜代大名から任命されることになっており、阿部正弘あべ まさひろは1843年に老中に就任します。(24歳か25歳くらいでしょうか)
異例ともいえるスピード出世ですが、それだけ阿部正弘あべ まさひろが聡明であったという証なのでしょう。

阿部正弘あべ まさひろが老中になったときの老中首座は、天保の改革で有名な水野忠邦みずの ただくにですが、強引な改革は民衆を却って苦しめ、腹心(と思っていた)部下に離反・裏切られ、結果水野忠邦みずの ただくには失脚します。
変わって1845年に老中首座の座についたのが、当時26歳の阿部正弘あべ まさひろでした。
水野忠邦みずの ただくにを反面教師をしたのか、独断専行は避け、常に四方八方に気を配って事を進めるというのが阿部正弘あべ まさひろの政治方針であったように思えます。

その2年後の1847年には、江戸時代末期におけるキーマンのひとり、孝明天皇が即位します。(1831年生まれですから16歳くらいでしょうか)
 
尚、孝明天皇には、何者かに暗殺されたのではないかという未だに解明されていない歴史の謎があります。
真相は不明ですが、その死が幕末期に与えた影響度としては、トップクラスのものではないでしょうか。

阿部正弘あべ まさひろの四方八方に気を配るという政治スタイル、それは江戸時代の初期に、徳川幕府による政治支配を正当化するための権威機関として、幕府の体制に組み込まれていた朝廷に対しても同様でした。
 
それは、孝明天皇が歴史の表舞台に登場したことと、日本をとりまく外交問題によって、否応なしに幕府と朝廷の関係を大きく変えていくことになります。

ペリー来航に先立つ7年前の1846年7月19日、アメリカ東インド艦隊司令長官ジェームス・ビッドルがコロンバス号、ヴィンセンス号の二隻の軍艦を率いて、日本との通商を求め浦賀沖に姿を現します。
たった二隻でしたが、コロンバス号に搭乗する兵士780名、有する砲門は86門、ヴィンセンス号は兵士190名、砲門24門を有しており、徳川幕府が設置していた江戸湾および周辺の台場(砲台)の数を凌駕するものだったと言われています。

浦賀奉行所は、ペリー来航でも活躍した通詞の堀 達之助ほり たつのすけらを派遣します。
コロンバス号に搭乗した堀 達之助ほり たつのすけらは2隻の軍艦がアメリカ合衆国のものであることを理解します。
司令長官ジェームス・ビッドルから手渡された文書の解読に勤めた堀 達之助ほり たつのすけは、翌日にはビッドルは通商を求めて来航したことを浦賀奉行所に報告します。
 
浦賀奉行所は幕府に、ビッドルに対して薪や水を供給し、外国との通商は国禁により認められない旨を返答したいと報告し、了承を得ます。
 
1846年7月25日、不測の事態に備えてか、幕府は川越藩主松平斎典まつだいら なりのりと(埼玉県行田市)忍藩主松平忠国まつだいら ただくにに対して、浦賀に赴き陣頭指揮を執るよう命じます。
藩主自らが江戸湾へ赴くのは初めてのことでした。それほどまでに幕府は、ビッドル来航を重要視していたのでしょう。
 
1846年7月27日、通詞の堀 達之助ほり たつのすけ、与力の中島 三郎助なかじま さぶろうすけら数名は、ビッドルに対し「日本は国法により、外国と通信・通商をしない。浦賀沖より退去されたし」と返答します。
 
1846年7月29日、ビッドルは浦賀沖から撤退します。
尚、退去の際に、幕府は、薪5000本、卵3000個、小麦2俵、梨3000個、茄子200本を提供したとされています。
(ビッドルが要求したのか、幕府が気を遣ったのかは不明ですが)
 
1846年8月19日にはデンマークの軍艦が日本沿岸の測量のため相模沖に姿を現しますが、測量が済んだためか翌日には退去します。

1846年10月19日、相次ぐ異国船の風聞に憂えたのか、孝明天皇は幕府に対して、神州に疵がつかぬよう適切な指揮を執ることを求める御沙汰書を幕府にくだします。
これが、朝廷が幕府に対して初めて勅をくだした例となります。

初期の幕府であれば、朝廷は幕政に口出し無用と一喝していたのかもしれません。
ですが、それをうけて、老中首座阿部正弘あべ まさひろは、異国船の詳細な来航状況を朝廷に報告します。
 
若くして幕府と朝廷のトップについた老中首座阿部正弘あべ まさひろと孝明天皇は、海外からの脅威を感じずにいられない出来事に遭遇したことを契機に、それまでの幕府と朝廷の関係性を(本人たちがどこまで意識していたかは不明ですが)大きく変質させていくことになります。

それはやがて、幕末期における朝廷の地位を大きく変え、幕府の命運を左右することにつながっていくのでした。


■参考資料
 ◆幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白
  家近 良樹 (著)
 
 ◆浦賀奉行所
  西川 武臣 (著)

 ◆日本人名大辞典(講談社)

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