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引き戸

日本の扉ってかなり珍しい。
古くは平安時代からある「引き戸」。
世界でも類を見ない形式で、他国では基本的に「押し戸」。
そもそもスペースのことを考えるなら、引き戸の方がいい。
押し戸は開閉時にスペースが必要となるため、確保しなければならないデッドスペースあるためだ。

じゃあなんで他では流行らなかったのか。
これは技術に帰着する。
一言で言うと“並行”を作らなきゃいけないから。
押し戸だったら歪な形でも、扉が穴を塞げてさえいればいい。
形も四角でなくても良い。
引き戸は違う。
スライドしなければならず、床が平らであるのは勿論、溝をつっかえずにスライドできるように天井も、扉自体も床に並行でなければならない。
つまり高い建築技術が必要なのである。

こうして引き戸が発展した日本には「観念としての境界」という考えが強まったように感じる。
押し戸であれば鍵をすればいい。
閂(かんぬき)なんかをつけてもいい。
押し戸は物理的に入ってこれない装置としても働く。
しかし引き戸はどうか。
まあ内側から箒を立てかけて開けられないようにはできる。
それはまあ例外で、基本的には鍵はかけない。
戸に鍵をかけるという文化自体明治以降、西洋からもたらされたものだ。
個室とはいえ鍵はかけず、物理的な装置としては働かないものなのである。

現在でも由緒正しい旅館では、部屋の入り口に鍵はかけられないようになっている。
しかし人は部屋に入ってこない。
これは観念として入ってはいけないと思っているからである。
この観念としての境界が強いのがこの日本だと思う。

例えば最高権力者への謁見。
国王への謁見の描写では大抵大きな押し戸の前に護衛が二人立っている。
号令と共に大扉が開かれ、護衛により作られた花道の向こう側に国王が座っている。
物理的に扉を開くことは大変だし、そもそも護衛により阻まれるだろう。
一方で天皇への謁見。
多くは襖が開かれ、簾の向こう側に天皇がいる。
天皇に届くし見ようと思えば見れるという物理的障壁がほとんどない。
ただそこには観念として天皇を直接見てはならない、不敬な行動を取ってはならないといった心的障壁がある。

こういった物理的にいけなくはないんだけどなんか行っちゃダメな気がするといった観念的な境界は色々なところにある。
寺社仏閣の本殿なんかも入ろうと思えば入れる。
コンビニのバックヤードなんかも「関係者以外立ち入り禁止」の文字はあるが、中に入ろうと思えば入れる。(鍵がついてるところもあるが)
それに対して、西洋、少なくとも僕のいたことのあるイギリスでは、バックヤードには鍵がついていた。

物理的な装置がなくても「こういうことはしちゃいけない気がする」という観念的な境界は日本は特に強い。
特に明確に禁止しなくても、自制心が育まれてきたのだろう。
観念的な境界が強く発達してきた日本だからこそ、してはいけないことへのアンテナが発達し、モラルの高さを生み出したのだろう。と僕は思う。

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