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「書評するなら褒める、酷評するなら書評を書かない」という哲学

以前は「書評誌」というものが多数存在した。書評の役割は、「この本を読んだらこんなに面白かった。だから多くの人に本書を薦めたい」という「推薦文」であると思う。しかし、一般人が薦めても、「口コミ」に毛が生えた程度のものになって説得力がない。そこで、その分野の専門家や有名人に「書評」をお願いすることになる。そこで起こったのが「批評」や「評論」だ。

曰く、「こんな誤植があった」に始まり、「誤認識があった」「とある視点が欠けている」「分析が甘い」などなど…。確かに、事実誤認があった場合には専門家が指摘してくれるのは読者にとってはありがたい。しかし、著者の視点や主張が書かれた物にすぎない本に対し、「この視点が欠如している」と指摘するのは無理があるだろう。全包囲的な文章を書いても主張がはっきりせず、面白味も半減する。ましてや書評者の知識レベルをひけらかすための「書評」かと思える程に、誤りを見つけては重箱の隅をつつくような指摘をした「書評」は、「推薦する」というそもそもの意図を完全に見失ってしまっていると思う。

学会誌や学術誌に書く場合は、もちろんこのような「誤記」に対する指摘は必須であろう。しかし、一般人に向けて書く書評は、あくまでも「お薦め文」であってほしい。もし、その本が「誤記・誤植・誤認識」だらけであったなら、潔く「自分はこの本を他人に薦める気はない=書評をしない」と言えばいいのではないだろうか。

「書評」を読んで興味を持ち、自分で実際に読んでみて「なるほど、面白かった」と思えれば完璧だ。しかし、書評で薦められて実際に読んでみたが、自分にはピンとこなかったり、面白くないとことだって多々あるだろう。感性が一人ずつ異なっている以上、本が面白いかどうかは非常に個人的なことであり、書評者と同じ価値観に立てないことも当然の帰結だ。

しかし、書評で「これは面白くない」「つまらない」などと酷評されていれば、多くの人はそもそも読む気が失せてしまう。もし読んでみたら、自分にとっては最高に面白く、人生観が変わるような本であったとしても…である。それ故に、人と本の出会いのチャンスを奪うような書評はあってはならないと思う。

だからこそ、書評は「お薦め」の時に書くべきであって、お薦めしたくない時は、酷評せず、「書かない」という選択肢を選んでほしいと思うのである。

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