2024年2月1日(バーチャル)
起き抜けに「安土桃はもう(にじさんじに)いない」と思いました。そしてただのピンク色やハート形から「安土桃」を連想するので、これは重症だと思います。昨日の今日とはいえ、ここまでこたえているのは、「安土桃」が「安土桃」だったからというだけでなく、「勇気ちひろ」や「ぽむれいんぱふ」も同様に「卒業」してしまったことや最近の天候、個人的にやりたいことがうまくいっていないことが束になっているからだと受け止めています。
過去に感じたことを再確認するように、今回も、悲しいわけではないです。手にしていたわけではないので喪失感を覚えているのでもなく、愛着の対象が離れてしまった苦しみが胸を刺したり締め付けたりするだけです。
数万人の愛や祈りが勢い良く溢れて流れ出た夜でした。そのお別れの華やかさは圧巻で、今日以降も私が雰囲気を引きずって言葉にしたい気持ちはありません。はなむけには加わらない異物のつもりでこれを書こうと思い立ちました。
「キズナアイ」のような「バーチャルYouTuber」と「キズナアイ」以降の「Vtuber」の間に連続性があるのかというようなことが先月、話題を呼んだようです。
私が「キズナアイ」を初めて知ったのは、それがマスメディアに取り上げられたときであり、その後「Vtuber」文化に親しむようになるまでには長いブランクがあるうえ、大真面目ではないので、歴史認識等に対して一家言はありません。あえて選ぶとすれば、Vtuberであるかどうかは自称の有無で判断できるという立場です。
意見交換の発端となった投稿について、投稿主の意図を予想して的中させることはきっと不可能ですが、「彼女」を当時テレビで見た私は、投稿主に同調した誰かの心の動きを想像することができます。
話が逸れるようですが、私は「サンタクロース」のことを周辺の出来事も含めて「文化」のようなものだと考えているので、その「正体」が保護者であるという主張にピンと来ません。それはひとつの側面ではありますが、「サンタクロース」は「サンタクロース」です。もっと理解されやすい例で同様の例は他にもあり、「モナリザ」は絵の具のかたまりかもしれませんが「モナリザ」です。死んだ犬は犬ではなく、犬の形をした肉だという見方がある一方で、死んでも犬は犬だという見方がより人間的だとされ、広く受容されているのではないでしょうか。
露骨・乱暴にいうと、私のような者は、物質的な事実に虚構を混ぜて現実を認識し、また、それを忘れて平然としています。
日常を送る私たち、老若男女の意識にファンタジーが潜んでいることを発見することがある気がするということです。
テレビに映る彼女はコーラのボトルのフチに立っていました(動画)。「中の人」などの現実的な仕組みを意識することはなく、そういった「バーチャルYouTuber」による非現実的なことが次第にYouTubeのようなプラットホームで可能になるのだとなんとなく考えていた気がします。この期待を力強く表現すれば、新たな「文化」の誕生と成長への希望に胸を膨らませていたということになると思います。
「キズナアイ」を全く知らなかった私は、それまでに身につけていた常識をもとに、容易く「文化」を受け入れました。私に似た人が大勢いたことでしょう。このとき、「サンタクロース」についてさえ見解が分かれるだろう万人が「文化」を正確に、同じ概念として、受け入れることができたかは疑問です。時が経ち、現在「Vtuber」に親しむ人が、ちゃんと主体性を持って応援したことはないけれどメディアで紹介されていたことは覚えている「キズナアイ」こそが「バーチャルYouTuber」であり、彼女の後に登場した活動者は、把握しきれないほど大量にいるけれどとりあえず全員、RP(ロールプレイ)(なんだよこれ一般用語みたいに)をどんなにしていようが紛い物であると捉えているとき、投稿を目にして、「Vtuber」の現状は当時の認識とは違うなぁと共感することはあると想像できます。
私はメディアによる「切り取り」という言葉を連想しました。
また、私たちは各々勝手に情報を取捨選択し現実を合成しているということを連想しました。
メディアの報道は、その公平性や中立性、真実味について、しばしば欠陥を指摘されます。例えば、今や事あるごとにネタにされる画像、フリップがあります。あれもメディアによるものですが、「バーチャルYouTuber」の希望を煽ることに一役買ったのではないでしょうか。
ここで私はマスメディアを非難したいわけではありません。なんというか、メディアを用いる私たちは自然に「切り取り」をしていることを確認しようとしています。マスメディアがこのように「バーチャルYouTuber」を紹介したのは、このように「バーチャルYouTuber」を把握していた人がいたからでしょう。その人は「バーチャルYouTuber」に肯定的な人だったと考えます。
ある人が事実とは異なる情報の発信を咎めるのは、その人が偽りのない事実を求めるからというのがだいたい一番の理由だと思います。
ただ、「バーチャルYouTuber」・「Vtuber」に肯定的な態度を示すことは、虚構と虚構でないものを都合よく当然のようにミックスすることです。推量ですが、「中の人」等の現実的な事情を全面的に気にして面白がっているファンは少数派ではないでしょうか。根拠となりそうな具体例は多く、最も説得力のあるひとつを選ぶことが困難です。現実と非現実の差は何かという話でもあるかもしれません。AIのキャラクターがコーラのボトルのフチに立つことぐらい、あの動画の場所で実現している以上、現実ではないですか? 現実って何ですか?
「ブイチューバー(笑)」なんかを応援しているから、現実がどうとか、どうでもいいことに引っかかりを覚え、分からなくなるんですか? 検証可能性が低い情報も流布してしまうんですか? でも極端な話、いじめは悪いことだと教えられながら、目の前のいじめを自分が止めるべきいじめだと思えず、いじめの傍観者になってしまう人が後を絶たないのは、現実が不確かなもので、都合よく改変できるものだからじゃないんですか? 不要な箇所を「切り取り」できる能力は誰にでも備わっているのでは? 混乱。
そもそも「バーチャル」が何かについて、以下がきっと参考になります。本来、「バーチャルYouTuber」について考えるために必要ではないかという点です。
日本バーチャルリアリティ学会 » バーチャルリアリティとは (vrsj.org)
全文が重要だと感じますが、特に以下が、今のところ支配的だと考えられる「バーチャルYouTuber」の定義:「本人がバーチャルYouTuberと名乗ればバーチャルYouTuber」を支えるのではないかと思います。
→ほとんど人それぞれ!!!
エンタメなら健全で楽しければ、いい加減でも概ね構わないでしょう!!!
おしまい!!!
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