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-普通のこと-

また、この画像は、PCのスリーブ待ち受けになっていた画像です。

どこかの国のどこかの風景です。

わからないです、教養がなくて、ごめんなさい。

でも、教養というと、町で見かけた鳥の名前とか、花の名前とかをさらっと言える人って素敵だな、と密かに思っております。

わたしには、皆無なところです。

ただ、その代わり、と言おうと思いましたが、代わりのものも、特になさそうです。

とはいえ、その代わりのものなど、大抵の人には、特にないのでは、とも思う。

だから、わたしは、なるたけそういう平たい感覚というか、世の中に普通なんてものはない、というステレオタイプを一切無視して、いわゆる普通はこうだよね、これってでも普通に考えると、これがいわゆる普通だよね、みたいな感覚を作品に昇華させようかな、と思っている。

普通なんてものはない、という人には、例えば、このまま仕事を辞めて、樹海にでも行きたいな、という感覚を、普通という尺度に置き換えることができる、という普通のことがわからないのかもしれないし、こんなこと話したら、ばかにされるかな、という気持ちを自分ひとりのものだと思いやすいのだろうし、それはとても勿体ない。

わたしに言わせてもらえば、二杯目のビールがあまり美味しくない、というのも、普通のあるあるだと思っているところがある。

それは、言葉を替えれば、共感性と呼ばれるものであろう。

例えば、わたしの嗜んでいる「短歌」というものは、些細なあるあるを拾い続けるものだし、共感性の塊をぶつけまくるものだとわたしは思っている。

そして、死にたい消えたい逃げたい捨てたい、笑えないし許せない、みたいな「普通」を大事にできたらいいね、と思う。

それでは、また柔らかな秋の日に。

#普通 #あるある #共感性 #教養 #ステレオタイプ

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