板前さんの話

年に数回お世話になる鮨屋がある。デパートの最上階付近にあり、休日の午後、昼時を外した2時、3時を狙って訪れる。

学生時代、一人で牛丼屋に入るのも苦手だったぼくが、板前さんとのタイマンになってしまう時間帯に、あえて店の敷居をまたぐようになったのは、”先生”がいるからだ。

2018年春。好物のつぶ貝を食していると、感想を求められた。ぼくは海産物のプロを前にして、必死に、この貝類独特の食感を表す語彙を探した。少なくとも「おいしいですね!」は避けなければならない。というのも、私は声の表情付けが不得意なので、本当に美味しがっているのかどうか、その実態を訝しまれがちだからである。ここは、言葉の力に頼るしかない。

「弾力があって、おいしいですね」

ぼくは、やっとのことでそう答えた。それを聞いて、板前さんは笑みを浮かべながらこう答えた。

「おいしいですよね。こう、歯を押し返すような弾力があるでしょ」

この言葉をきいて、ぼくは自分の放った言葉の稚拙を恨んだ。比して、なんと臨場感に満ちた、わかりやすい評か。

この「事件」があってから、ぼくは板前さんに「学び」を求めるようになり、さらに、セットを頼まなくなった。この板前さんのオリジナリティ、人間性を楽しみたかったからだ。というのも、ランチセットを頼むと、ネタの種類は縛られ、また一度に全てのネタが供されてしまう。どのタイミングでどんなネタを提供するかという、握り手の個性が表れにくいのである。

あるとき、こんな質問を投げかけてみた。

「きょうのお鮨は、どんな順番で出してくれてるんですか?」

我ながら、余計なことを訊く面倒な客である。帰り際に盛り塩をされなければよいが。

「基本的に、私の気分です。だけど、味の繊細なものは先にお出ししますね。ウニとか、最初に濃いのが来ちゃうと、うしろのネタの味が分かんなくなっちゃうんで」

礼文産のウニが入ったということで、お願いしていたが、これは特に味が濃く、主張も強い。最後の方に出したのはこのためだったか。一方、ほのかな甘みを楽しむ白身のイサキや、味の微かなイカは、はじめに出されていた。

言われてみれば当たり前と思われることも、斯うして実地に教わると、なるほど感心させられる。それも、素人の客にも分かりやすい語りの妙があってのことである。

また来ますと暖簾をくぐり、この日の講義は終了。市井には、おいしい学びもあったものである。

なお、板前さんの名前に肖り、この鮨屋を「堀口大学」と呼んでいる。授業料は決して安くない。卒業まで学費を払い続けられるか、そのこと丈がつくづく不安の種である。

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