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「自粛の基準」と「一隅を照らす」について

 自粛の基準と「一隅を照らす」について。

 アフガニスタンで活躍した中村哲医師に関連するインタビューをPodCastで聞いて、「一隅を照らす」という単語に感銘を受けた。ので、関連する雑記を。

「一隅を照らす」

 「一隅を照らす」とは、「自分の周りを照らすのが大事で、それが積み重なることで世の中がつくられる」という意味と思う。世界中に多くの問題があって、自分一人の力では到底ぜんぶを解決できないが、自分の周りを少しでも改善することで世の中を良くしていこう、という考え方だと思う。

「自粛」の基準や範囲

 喪に服すとか、自粛とか、どうゆう基準でみんなやっているんだろうか、というのをずっと前に考えたことがあった。東日本大震災のあとの日本全国の自粛ムードもそうだし、大きな事件が起こった後とかもそうだし、個人レベルでは身内が亡くなった時など。一方、世界では、栄養不足による餓死も依然として多く、貧困で薬がなくて多数の子供たちが死んでいる地域も多いし、紛争地域も多く、毎日毎日、多くの人が亡くなっている。世界の貧困(飢餓)の様子を図示した Hunger Map を国連が出していて、2021年は8億人以上が十分な食事が得られていないとのこと。
 この差はなんなんだろうか。世界中で、自然死ではない「救える命」が毎日のようにたくさん失われているが、なぜ自粛や喪に服さないのか。その基準はなんなんだろうか。みんなどうやって決めているのか。
 
 自分の結論としては、「自分にどれくらい近いかによって決めている」んじゃないかと感じていた。遠くの世界のどこかのハナシよりは、身近に感じることのほうが重要性が高いし、自分への影響も大きい。生物学的にも、自分の遺伝子が残るような選択圧がかかって進化してきたため、自分と遺伝子が近い人や社会的関係性が近い人に、多くメリットが行くように働くことが推測される。ちょっと強引だけど、社会的にも遺伝的にも、自分に近いかどうかを判断基準にしている気がするし、人間はそのような性質が備わるよう進化してきたんじゃないか、とも思う。海外で地震や爆破や飛行機墜落などが起こった際に、被害者に日本人がいたかどうかが報道されて、昔から一部批判もあったけど、こうゆう文脈で考えると至極真っ当にも思える。

「一隅を照らす」も範囲と関連する

 で、これと方向性は少し違うけど、「一隅を照らす」も似たような問題に1つの答えを与えている気がする。むしろ、自分が何かアクションを起こす際には、この考え方のほうが適していると思うし、こう考えないと何もアクション出来ない気もする。なので、かなり感銘を受けた。
 
 地球温暖化とか、小雪とか、脱炭素とか、リサイクル問題とか、エネルギーの枯渇とか、生物種の絶滅とか、グローバルな問題はどれも、調べれば調べるほど沼にハマっていくことが多い。いまのアクションが問題解決に関係なかったり、関係性が証明できなかったり、政治的や経済的な問題とつながってたり、どこかの国や地域の意図による影響があったり。調べるにつれて知識だけが増えていくけど、ある程度調べたうえで、「一隅を照らす」と割り切ってアクションしていくのがいいのかも、とも思う。自分も、ほんのわずかながら脱炭素の研究に関わってるけど、少し思い切って割り切れるようになってきたかも。「自分がアクションすることで影響を及ぼす一隅が、どの範囲なのか」というのも重要な気がする。
 
 写真はハンガーマップ。国連の機関「国際連合食糧農業機関」より。

Hunger Map 2020年
Hunger Map 2021年


 一隅を照らすのインタビュー(コテンラジオ):
https://www.youtube.com/watch?v=yAWwDUk-iRg


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