「平野啓一郎、文学と九州を語る!」

作家の平野啓一郎さんの話を聞ける機会が過去にもあったが、情報を見逃していたり仕事の都合だったりでやっと11月2日にその日がやってきた。
「平野啓一郎、文学と九州を語る!」

子供の頃から続く一番古い趣味が読書だ。その中でも純文学が一番好きなカテゴリというのは今も変わらない。そのど真ん中にいる人、大人になりたてのくらいの時にそのファーストコンタクトはあった。

え?ちょっと年上のしかも同じ福岡で、しかもあの北九州出身でこんな知的で美しい文章、美しいだけでなくグッとくる、こんなことが世の中起きているんだ、わたしがグズグズしているうちに。

当時の私は純文学は自分よりも大部年上で(今でもそう思ってしまう、自分も年齢はだいぶ大人になったのに)東京など洗練された都市の出身の人が書くものという偏見があった。それに、同じ福岡でも北九州に多少なりとも偏見があった、粗野で危険。

北九州時代、そして京都大学時代の話は年齢も近いのでシンパシーを感じる箇所が多く、わたしの中高時代はむしろ精神衛生上健全だったのではないかと誇らしく思うほどだった。

日常生活と読書をしている時間の落差。中学生の早い段階で三島由紀夫の文章の美しさの虜となり自らをその中に幽閉していたことを思い出した。確か、あれは国語の授業の1コマで文学史を習った時のこと。班を作って作家について調べて年表を書くように言われてた。わたしは誰とも班を作らず一人で三島由紀夫の生涯、残した作品、彼の作風についてのわたしなりの考察をまとめた。それは誰にも邪魔されたくなかった。当時、クラスメイトのほとんど(たぶん全員)が三島由紀夫を知らなかった。

合唱コンクールや体育祭の一致団結のハイテンションについていけなかったエピソードはまさにわたしの高校時代と合致した。大人になった今でもわたしはあの手のテンションを苦手としている。同調圧力が当たり前でそれに反抗する人がほぼいない昭和に育ったわたしはきっと学校で浮いている存在だったに違いない。しかも平成が終わろうとしている21世紀の今もたまに感じる同調圧力、例えば結婚、出産、そこに抗うわたしという構造は今も変わらない。

わたしは英語を話すようになり、ロシア語を学び多少なり会話ができるようになり、そして今アラビア語を学習中でほんのちょっと会話ができるようになった。日本語を話す時と他の言語それぞれを話すとき違う人のように感じる。作っているわけでもなくその言語に則したというのが合っているのかはわからないが、中身だけでなく声の高さ口調もそうだ。わたしだけでなく今までわたしが出会った複数言語を話す人全員に見受けられる。

分人という平野さんの考えを知る前に感じていたものが言語で違う人格が出るというものだった。そこから分人という言葉を知り人間関係によって性格が変わるが本当の自分はどれか1つではなく全部本当の自分だということその考えに共感した。緩やかにスイッチする対人関係からの人格変化はオン・オフやライト・レフトではなく緩いカーブを描く変化でありスムースなギアチェンジを本能的に時にテクニックとして行っている。好きな自分に影響する人たちを大切に、と思ったが好きな自分はどんなで誰といる時なのか改めて考えてみたいと思ったのと共に、今まで受けた友人知人からの相談に共通している分人があった。その分人はわたしには欠如しているので言葉で理解できても心からの理解ができないものだったが、平野さんの著書 私とは何か 「個人」から「分人」へ を紹介すれば本人が勝手に解決するかもしれないと思った。

わたしの読書は趣味というよりも中毒で一時は活字中毒と思っていたが、それは違って感情を揺さぶられることへの中毒だと気付いた。
平野さんの作品で マチネの終わりに というものがある。内容はネタバレするので書かないけれど、わたしは号泣し翌日にはあまりに目が腫れというよりも顔が腫れ、思い出しては涙しというのが一ヶ月ほど続いた。大人の恋愛にももちろん共感したのだが、日本、パリ、ニューヨーク。わたしにとっても思い出深い場所。わたしはジャーナリストではないけれどパレスチナに通う身としては中東問題は身近でジャーナリストの友人が戦地に取材に行って帰国するまでの間の不安な気持ち、難民になった友人のこと、ヨーロッパで暮らした日々のことなどわたしの経験がより感情移入をする手がかりとなったのだ。この10年で一番泣いた気がする。
そんなこころの揺さぶりについてご本人に伝えてしまった。多くの人から感動しました、とか泣きましたと何度も聞いているとは思ったけれど、伝えずにはいられなかった。
緊張しすぎて思いの1割程度しか言葉にならなかったけれど。

今思うのは現実に見たニュースでも友人のことでもなく言葉で感動し感情が揺さぶられ時に日常生活にまでその影響は及ぶ。言葉の偉大さというと陳腐だがこころからそう思った。言葉の力。

同時に小説はフィクションであっても私小説であって小さな個人的な歴史物語だと実感した。わたしが残している少なくないメモ、パレスチナで出会った人々、人々から教えてもらった建物にまつわる話、友人の難民になるまでの道のり、その後の生活、みんなから教えてもらった1948年にまつわる個人的なエピソード。ニュースや教科書に載る歴史になるとただの数字になってしまうことでもその数字以上にたくさんの物語がある。その物語のいくつかを知っている。とても個人的なものだけど、現実のこと。知ることによる政治の変化も見てきた。直近でいえばKhan Al Ahmarのイスラエルによる撤去延期とか。

わたしに影響力はないかもしれないけれど、誰かが書き残すことであったことが忘れ去られるという可能性を低くする、無かったことにはならないはずだ。わたしも書き残そう。わたしのために。

長く生きていると諦めとか妥協とか色々ある。自分の好きなことや好きな人憧れの人に会いに行くのは積極的にした方がいい。一つの自分はたくさんの分人から成る。その分人は人々の影響なしには作られない。影響されるのは化学変化のようなもので複雑であるほど多くの化学物質が生成されたり予期しないものまで生み出されたりする。

まずは今までやっつけで書いていた文章をもっと丁寧に書き丹念に推敲しよう。

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