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交点の銀鱗

 私が普段釣りをする水域は、鹿島灘と呼ばれる太平洋の海域と、そこに対し逆弧を描く関東平野に広がる汽水域とに大きく分けられる。この二つの水域を貫通して生きる魚の代表がスズキだ。塩分濃度の変化に耐性を持つ彼らは、太平洋や平野部の汽水域、ときには完全な淡水域である河川上流部までも到達し、各水域を縦横無尽に泳ぎ回っている。
 私がこの魚の姿を追うようになってずいぶん経つ。厳冬期のセイゴや春先から初夏にかけアミやハク(ボラの稚魚)を追うフッコ、夏の磯スズキ、そして秋の汽水湖を悠々と泳ぐ大スズキ。様々な季節と様々な場所で釣りをするうちに、私は不思議な感覚を覚えるようになった。もしかしたら私が釣っているのはスズキという魚ではないのではないか。私は季節そのもの、地勢そのものを釣っているのではないだろうか、と。そのことを少し詳しく説明したい。

 肉食魚であるスズキが追うエサの種類や大きさは時期ごとに変化する。だからそれに伴い釣法や狙う場所も変化していく。スズキ釣りにのめり込んでいくと、釣り竿を通してそうした季節の変化を感じる機会が増えてくる。私たちは一般に、3〜4月が春で初夏が5〜6月、夏は7〜8月などと、カレンダーによって季節を切り分けている。しかし釣りをしていると、しばしば水の中の季節は徐々に「進行」していくものなのだと気付かされることがある。春の光の中に初夏の兆しが、秋の中に冬の陰りが見え隠れする。だからスズキ釣りをする上では、今この瞬間の水中がどの季節で、これからどう変化していくのかを詳細に、かつ機敏に捉えることがとても重要になる。
 地勢にも同様のことが言える。水中にも山があり、谷がある。それに従い、水の流れは複雑に変化し、エサ――当然スズキのエサとなるものも等しく生きていて、季節や地勢の変化を受けている――の「付き場」も変わる。水中の塩分濃度や酸素濃度も地勢に左右されることが多く、付き場もそれに従い自ずと絞られていく。水中の山や谷を想像するのは容易ではないが、陸上から見えるものを観察すれば岬の延長には山が、急峻な崖の直下には谷がなんとはなしに見えてくる。

 こうして季節や地勢をヒントにスズキを追いかけていると、先にも述べたように幾分と不思議な感覚に襲われる。一匹のスズキは、単なる一個の生命ではなく、そこに季節という意味での時間の流れ、地勢という意味での空間の延長を背負っている。時間と空間との交点において存在するのが、一つの命であり、その形があの美しい銀鱗として現れているのではないか、と。
 もちろんそれはスズキだけではない。アジやメバル、イワシといった小魚から、ブリやカンパチ、マグロなどの大型魚まで、全ての魚は時間と空間を背負ってその点に存在している。そしてこの点の位置を見極め、口元まで針を運ぶという行為が、私にとってのスズキ釣りだ。格好のいいことを言っているようだが、この見極め作業は困難なものだ。アテが外れることの方が多いことは間違いない。だが少しずつ季節の進行や地勢の把握にも慣れてきたと思う。大きなスズキに出会うことも増えてきた。と同時に私がこれまで述べてきたような「交点」としての銀鱗という考え方にも確信を深めている。

 そして今一つ、この考え方の先に私が空想しているのは「私もそうなのではないか」ということだ。もしかしたらこの私も、あの銀鱗たちと全く同じ意味において、この交点の一表現として存在しているのではないだろうか。偶さかにこの時代に生まれ、偶さかにこの土地を生きる。その結果として釣り竿を手にしている。私はなんとはなしに「初原的同一性」という語のことを思い出した。世界各地のさまざまな神話に見出される、動物と人とが初原において同一の存在であった、とする世界観。その重みも意味も異なってはいるが、私とスズキとの間にも等しく時間と空間を背負う者同士のつながりがあるのかもしれない。
 それで何がどうなるのかといえば、相も変わらず魚釣りをしているにすぎない。しかしその行為を通して、時間と空間という大きな存在に触れる機会が増えたのだと思うと、ほんの少しだけだが、あの銀鱗の深みを理解できたような気がして、なんだか嬉しくなるのだ。


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