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写真にとって技術の向上は必要か

はかなさとは単なる刹那か

「はかない」「切ない」などの言葉で記述できる写真群がある。
にじみでるような淡い感情が表現された画像を指してそのように語られる場合が多い。
その「はかなさ」「切なさ」はある意味、その発露の瞬間を偶然に捉えた場合が多いと考えられる。
だから、はかなく切ないものは刹那の象徴であり、分析や計画とは次元の違うものとも言われてもおかしくない、が。

写真家との再会

写真家・鷺坂隆(敬称略)とはすでに40年近い交友を持ってきた。彼と私は出版社の同期でふたりとも早くしてその会社を去った。彼はファッションフォトグラファーとして多忙な日々を送った。私の方はさまざまな事情でくすぶっていた。華やかなファッションの世界で活躍する彼としばらくは連絡を取らずに時間が過ぎた。
その鷺坂と久しぶりにある撮影で一緒になり、また交流が戻った。その後、写真イベントやSNSでの活動でともにコラボを続けている。彼の写真を再び多く目にするようになり、私は自分の趣味のカメラに彼の知見を役立てようとした。

精緻な精神の城

彼の作品を目にするたびに、そのはかなさや切なさ、リリシズムに圧倒された。私は彼の作風を模倣しようと試みたが、それが無謀なことな早くに気づいた。それは彼の作品が、偶然でも刹那でもなく、しっかりした技術を器に、彼の抒情を注いだ、精緻な精神の城だからだ。

偶然は神の産物

「写真にとって最後は偶然、ミューズが微笑むかどうか」というのは事実かもしれない。いくら計算しても計算しきれない最後の部分で、写真家は偶発的に光や色彩の奇跡を受け取るのだろう。しかし、それは誰にでも起こることではない。技術の鍛錬を経た人にこそ、ミューズは微笑む。もろろん何の知識や技術のない撮影者にも傑作はある。しかし、ここではそれに触れない。
技術を極めないと、見えてこない偶然の話が主題である。

技術の総合芸術としての調和

鷺坂の作品は、整然としている。あえて、雑駁に言えば、美しいのもにはノイズやカオスがない、と彼は考える。もしノイズやカオスがあっても美しいと感じるとすれば、そのノイズやカオスにはひとつの統一感、世界観が存在するからだ。
曇天の空に力強く枝を張り出す桜、その先端には空に溶け込むかのような桜の花。広大な夕闇の平原の彼方に走る新幹線の一条の光・・・。数々の作品の登場人物たちは主張の濃淡を奏でつつ、すべてが調和している。この調和こそが、機材や絞り、シャッタースピード、ISO感度など多様なパラメーターの総合芸術となる。

作品に作家のキャラクターは関係ないかもしれないが、私の主観では、彼の繊細さと写真に対する強い意志など、彼自身にも調和の内在を感じる。だから私は彼の作品を大切に考えたい。

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