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相撲の起源は神事。古代の戦いを語る。

神事相撲は神社における祭事として相撲をとる風習です。農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代になっても続いています。

皆さんが知る日本由来の武道・格闘技・スポーツとして国際的にも認知されている土俵の上での力士の戦いは、起源は神話の時代からの神事です。

相撲の頂点は大関でした。江戸の後期、お腹に注連縄(しめなわ)を巻く横綱という御神体となりました。人が神として奉られたのです。土俵は人が神になる特別な場所でした。女性が土俵に上がれないのは差別ではありません。相撲は神事なのです。

「すもう」の呼び方は、古代の「捔力(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す」)が起源です。「スマイ」「スマヒ」「スマフ」が「スマウ」になり、さらに「スモウ」に変化した。表記としては「角力」、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、などの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものです。

記録に残る記述で相撲に関する記述が初登場するのは古事記です。古事記の垂仁記には、
  ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。

とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れます。以降の記紀や六国史においても、相撲に関する記述が散見されます。なお「相撲」という言葉そのものが初めて用いられたのは日本書紀の雄略天皇13年の記述で、

当時の木工にして黒縄職人であった猪名部真根(いなべ の まね)が常に刃先を誤らず、刃をこぼさない様子を雄略天皇は怪しまれ「誤って(台座の)石に当てることはないのか」と尋ねられた。真根が「決して誤らない」と答えると、天皇は采女(うねめ:現代でのメイドさん)を呼び集めて衣服を脱がせ、褌(はだか)にして人前で「女相撲」を取らせました。その様子に見とれた真根は刃先を誤り、雄略天皇の手前で豪語した事と違ったために処刑執行となるところ、その仲間が真根の処刑による匠の墨縄技術の失伝を憂う歌を詠んだところ、それを聞いた雄略天皇が処刑中止の為の使いを出し、執行寸前で中止となり事なきを得ました。

この日本書紀による記述が「相撲」という言葉が用いられた最も古い記録になります。

古来の神事の相撲の前に現代の相撲をおさらいしておきましょう。

相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われます。(無差別の戦い方)

現代の相撲の手順
1 塵手水(ちりちょうず)を切ります。
塵手水は、大相撲の作法のひとつで「私は武器を持っていません、素手で正々堂々と勝負します」の意味があります。

2 仕切り
試合の準備、試合前の向かい合った状態。円形の土俵に入り、最初はやや離れて立ち、互いに顔を見合わせ、腰を落とし、仕切り線に拳をついて準備します。これを仕切りといい、立合いが成立するまで繰り返します。仕切りは何度行ってもよく(制限時間がある場合はその範囲で)、繰り返さなくてもよいです。

3 立ち合い
試合の始まりの事。立合いは世界では見られない日本独自の方法で、その開始は両者の暗黙の合意のみで決まります。仕切りを繰り返すうちに両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形です。

現実には時間制限や行司(判定する人)の介入がありますが、本来の相撲の立ち合いは、仕切りを繰り返すうちに両者の気合いが乗り、共にその気になった瞬間に立ち上がるのが本来の形であり当人同士の気分次第です。仕切りも一昔前は距離制限が無く頭と頭をつけた状態から開始されることも多かったようですし、ルールはお互いが納得すれば良かったようです。行司はそれらを確認するだけです。

勝ちの確定
勝ちが決まるのは次の場合です。
相手の体のうち足の裏以外の部分を土俵の土に触れさせた場合。投げて背中を着けても引っ張って掌を着けてもよく、極端な場合は相手の髪の毛が着いてもその時点で相手の負けが決まります。
相手を土俵の外に出した場合。相手の体の一部が土俵の外の地面に着いた時点で勝ちが決まります。

現代の相撲の禁じ手
大相撲の勝負規定では、以下の行為が禁止されています。
握り拳で殴ること
頭髪をつかむこと
目またはみぞおちなどの急所を突くこと
両耳を同時に両手のひらで張ること
前立みつ(前ぶくろ)をつかみ、また横から指を入れて引くこと
ノドをつかむこと
胸、腹をけること
一指、二指を折り返すこと

これらを実行すると自動的に反則負けとなります。

大雑把ですがこれが現代の一般の人が知る相撲です。では現在のスポーツ要素の強い相撲以前はどうだったのでしょうか。

新田一郎氏によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったといいます。

古代の相撲はバーリトゥード(なんでもあり)の世界です。

相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられています。

相撲は相撲(あいなぐ)る → 相殴る、つまりお互いに相手を殴り合うのが始まりです。打つ・蹴る・投げる・極める・絞めるの総合格闘技であり、素手(武器を持たない)で行う殺し合いでした。「すまいとらしむ」まさに「棲む」もしくは「住む」ものが己の存在をかけて戦います。

人間の相撲の歴史で最古のものとしては野見宿禰(ノミノスクネ)と当麻蹴速(タイマノケハヤ)の「捔力(すまひ)」での戦いでしょう。こちらは「柔道」の起源でもあるとされています。日本書紀によれば当麻蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、名前の通り蹴るのが誰よりも速い男でした。当麻蹴速は「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していました。強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲してると聞いた垂仁天皇(すいにんてんのう)が即位7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力で対戦させることとなったのです。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、宿禰が蹶速のあばら骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させてしまいました。これらの記述から、当時の相撲は打撃も許される格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメを加えて命をも奪う、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、武芸・武術であったことは明確でしょう。宿禰・蹴速は相撲の始祖として祭られています。

相撲神社
 野見宿禰と当麻蹶速が戦い日本初の天覧試合が行われたとされている場所で桜井市穴師にあります。大兵主(だいひょうず)神社の摂社で、宿禰が祀(まつ)られています。

當麻蹶速塚
 當麻寺の参道にある蹶速の墓と伝わる場所です。塚の隣には相撲館の「けはや座」があり、その展示土俵に上がることができます。

日本における相撲の最古の記録は、古事記の国譲り(くにゆずり)です。日本神話における天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話です。葦原中国平定で、天照大御神・高御産巣日神(タカミムスビ)らによって建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出ました。「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとするとタケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めませんでした。タケミナカタがこれを恐れて下がると、逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰して放り投げました。タケミナカタは逃げ出しましたがタケミカヅチがこれを追い、ついに科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとしました。その時に、タケミナカタはその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束したといいます。つまり勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。ほとんどターミネーターと人間の戦いであります。

古事記は大和民族の口伝を漢字で記した(大陸から漢字が伝わったため)日本最古の書物です。一方、日本書紀は朝廷が古事記を対外的に再編集した書物です。古事記に存在するタケミカヅチの詳細な記述があまりにも現実味がないために日本書紀では端折られています。

一昔前であれば御伽噺や童話として受け取られましたが、真に現代の科学を理解できる人、もしくはアセンションに成功した人であれば、実際に起こった出来事であることは容易に理解できます。間違いありません。国譲りの正体は超文明人たる神々と古代原住民との現実に起こった実話です。

最後に
どうでしたでしょうか。相撲の見方が変わったのではないでしょうか。古代の相撲を理解して現代の相撲を観戦すると、また違った面白さがあるのではないでしょうか。繰り返しになりますが女性が土俵に上がれないのは差別ではありません。相撲は神事なのです。現代の一般常識に当てはめて語ってはいけないのです。

皇室の女系天皇の話も同様です。差別や権利意識で話を進めるものではないのです。皇室は男系の伝統を守るべきであり、現代の人間の価値観で勝手に変えてよいものではないのです。神々との契約があるのです。そして科学や精神文明が進めばおのずとその答えが明らかとなり、理解することができるでしょう。

読んでいただきありがとうございます。これからも独自の視点で語っていこうと思います。これからもよろしくお願い致します。

著者 Akamaru



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