探し求める出口

最近、また「つくる」ということについて考え直している。
1ヶ月前のnoteでも同じように「つくる」について考えていたが、その当時の結論は「深く知ろう」としていくことで、自ずから結果的につくることになるんじゃないだろうか、という結論だった。
当時の自分はそれなりに納得感のある答えにたどり着けたと思った。ただ、それ以降も「つくる」に対する思案は頭から離れず、事あるごとに考え直してしまっている。

最近、Podcastで『超相対性理論』という番組を聴いており、そのなかで「ひとはなぜつくるのか?」というテーマで話し合っている回があった。
そこで話されていて覚えているフレーズとして
「普段からラジオやプロダクト、本、voicyなど何か具体的につくっているものが決まっているひとはいい。苦しいのは、そういった日常的につくっているモノがないひとで、そういったひとはある種『出口のなさ感』を感じていて息苦しいのだ」
といった趣旨のことが話されていた。

自分の苦しみは、まさにそうだ。自分は普段から何か日常的につくっているものがない。voicyもnoteもプロダクトも、具体的なのモノをつくっていない。
というより「つくるモノが固定化されていない」といった方が正確かもしれない。自分のなかでつくるものが固定化されていないからこそ、相手に合わせ過ぎる生き方になっているかのようで、自分と社会とのバランスが崩れているみたいで、「あれ、なんで私生きてるんだっけ?」と見失い、その「出口のなさ」に息苦しくのだ。

創作が民主化されている今、つくることのハードルは昔よりも下がっている
例えば小説でも、エッセイでも、料理でも、音楽でも、写真でも、道具・レシピは揃っており、今や誰でもつくって、発信できるような環境になっている。これだけ選択肢があると「じゃあ実際何をつくるのか…」と逆に迷い始めてしまうのだ。

自分も迷うからこそ思ったのだが、その”迷い”は「なにをつくるのが最も自分に合っているのだろうか?何だったら”出口”になるのか?」という問いで、過去の記憶を探って見つけようとしているが、過去の探索では”出口”は見つからないのでは?と。
最適だったか、出口になるか、これらは後付けの結論なのだ。
過去の記憶ではなく、結局何度も何度も積み重ねた実績によって”出口”が立ち現れる。考えてみてすぐに”出口”が答えられなければ、それは現時点で"出口"はないし、探しても見つからない。
なぜなら「わたしは昔からずっとこれをやっている」という体感に基づいて、自分なりの「出口」が形成されるものだからだ。

最適かどうかではなく、大事なことは継続して1つモノをつくり続けること。
毎日やること。毎日努めて、真摯に、妥協することなくつくり続けること。
結局その積み重ねが自分にとっての「出口」になる気がしている。

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