創作とは「つくろう」とするものではなく「つい」やってしまうもの

ずっと何かを「つくろう、つくろう」としてきた(まぁ今もつくろうとしているが)
けれど、創作というものは理性や意識を用いて「つくろう」とするものではなく、直感や無意識によって「つくってしまう」ものなのかもしれない。


つい先日友だちと野田地図の舞台を観に行ってきた。
実は友だちと観に行く前に1人で観に行って、1回目が良かったので2回目を観に行こうと思い、折角ならと思い友だちを誘って観に行った。

2回目も2回目で楽しく観ることができた。
が、今回の一番の気づきは、その後の感想戦だった。

すごくメタで捉えると「舞台を鑑賞する」という行為は「消費活動」であり「インプットする場」。制作者の発信を迎え入れる「場」だ。
そうやってある種、創作者から一方的に受け取ってしまうと、なにかモゾモゾとその受け取った"何か"を話したくなってしまう自分がいた。

簡単に言語化できない"何か"を自分の身体のなかに迎え入れて"しまった"ような感覚で、
言葉という形、感想というフォーマットで、友だちに発信したい自分がいた。

それを創作というには烏滸がましいかもしれない。
けれど、人というのは外から言葉にできない何かを受け取った時、どうしようもなくその"何か"を発信や創出したくなるものだ。

つまり「つくろう、つくろう」と理性を働かせても何も創作は始まらない。
何かを受け取る観察力や感受性を磨き、町へ出かけて色んな体験をして、何かを自分のなかに迎え入れ、つい創作してしまいたくなるような状態を待つしかない。

「待つ」という表現は正しくない。つい創作してしまいたくなるまで、身体を動かし続けるしかない。

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