「わかる」と「つくる」は分けられない

今まで「わかろうとする行為」と「つくろうとする行為」は、別の行為だと思ってきた。
けれど、実は「わかろうとする行為」と「つくろうとする行為」は決して分かれる行為ではなく、同じ行為であり分けられないものだった。
行動を始めるきっかけはどちらであれ、つくっていればわかってくるし、わかろうとすればつくることになる。

先日、牧野伊三夫展がやっていたので観てきた。
そこで福岡県の糸島の景色のラフスケッチが展示されていた。
スケッチを観て「このスケッチは糸島のことをより深く分かろうとする行為なのか、それとも糸島のよさを表現するために創ろうとする行為なのか?」と考えたとき「それは分けられるものではなく、未分化で混ざり合いながら進行している行為だ」と思ったのだ。

牧野 伊三夫 展

『ブルーピリオド』という漫画がある。
ある高校生の「美大受験・美大生活」をテーマとしたドラマなのだが、そのストーリーの1つのシーンとして、母親に美大受験に同意してもらうために、母親のことをスケッチし、その絵をプレゼントすることで美大受験に納得してもらおうとするシーンがある。
主人公の八虎がスケッチのために母親を観察するなかで、「熱いお湯で食器を洗うから母親の手はささくれている」や「一番盛り付けの悪いおかずはいつも母さんが食べてる」など、母親のことについて深く知ることになる。
母を説得するために絵を「つくっていた」が、同時に母のことをより「わかっていく」のだ。

『ブルーピリオド』

また逆のこともありえるだろう。
同じく『ブルーピリオド』のシーンのなかに「いい作品の共通点を知ろうとする」シーンがある。
その共通点を知ろうとする時に行った行為は、いい作品の「模写」だった。模倣作品を「つくっている」うちに、共通点が「わかってくる」。
これは絵画に限らない、料理でも写真でも動画でも何でも。模倣作品をつくることによって「わかること」がたくさんある。
模倣するだけじゃなくても、その作品についてテキストでディスクリプトする(言葉で言い表す)ことによっても「わかること」がある。

『ブルーピリオド』

いつの日かのnoteに「わかることが好き」ということを書いた。

そして「つくりたいけどつくれない」ということも書いた。

けれど、「わかろうとすること」と「つくろうとすること」は未分化であると考えると、自分はすごく浅いところで「わかった気になっていた」だけだった。
「わかった(と感じた)こと」を自分の言葉で説明してみる。対象のことをそっくりそのままテキストで表現してみる。
そうやってつくってみると、実はわかっていなかったことやもっとわかりたいことが立ち現れる。

だから「自分はなにもつくれない、何かつくらねば」と焦る必要はなくて、もし自分と同じように「わかりたい」という欲求があるのであれば、より深くわかるための有効な手段として「模倣してつくる」「ディスクリプトしてつくる」ということがあり、それを実践してみることによって、結果つくれるようになる。

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