身体化・観念の外在化

「誰かと話すことが好き」間違っていないけれど、しっくりきていない。

「誰かと対話したい」というのは純粋な欲ではなく、あくまで対話は自問自答するための1つの手段であり、自分の内側にあるモヤモヤとした"何か"や観念を「言葉」という形を用いて、腑に落ちる瞬間が楽しいだけなのだ。
だからなのだろう、こうやって急にnoteを書き出したのは、自分のなかにある"何か"にイイ感じの形が与えられる時があるからなのだろう。

「腑に落ちる」という言葉を自分はよく使う。
「五臓六腑」という言葉があるが「腑に落ちる」の「腑」は胃・腸など「はらわた」を表すが、「腑に落ちる」とは理性や合理ではなく身体(からだ)の内側で分かる感覚だ。


身体の拡張が快楽

自分の身体が思い通りに動くと楽しい。
筆を持って文字を書いてる時や楽器を奏でている時、思い通りの形や音が出ると、筆や楽器が自分の身体の一部となったように感じて嬉しくなる。

この喜びはなんだろうか?
プロセスを分解してみる。

  • 「指を動かす」という身体の動き

  • 動きによって、実体として残るもの(アウトカム)

  • 自分が持っている観念(アウトカムの予測イメージ・理想イメージ)

  • アウトカムとイメージの差分の有無

このように分けてみると、"一体化(身体の一部となる)"とは、
「身体を動かして出来上がったアウトカム」と「自分のなかにあるイメージ」が一致することなのかもしれない。


観念に形が与えられるのが楽しい

よく「ものづくりが好きだ」というひとがいる。
だけど「つくること」それ自体に意味はないのではないか?
つくることを通して、自分の中で"形"が与えられていない(観)念に、しっくりくる"形"を与ることができた時に、人は快楽を感じる。「つくることは楽しい」と言う。だけど、その喜びは「観念を形にする喜び」なのだろう。

先ほど「一体化する(身体の一部となる)感覚は快楽だ」という話をしたけれど、身体化も観念の外在化も同じ喜びなのかもしれないなと、ふと感じた。つまり「観念にしっくりくる形を与える喜び」とは、別の見方をすれば「行為や体験が身体化される喜び」なのかもなと。

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