償いとしての創作

放っておけば、ずっと考えている。本当に前に進まない。

「前に進む」とは何だろうか?
自分なりの定義は「他のひとに価値を(つくり)提供すること」または「他のひとに貢献すること」だ。

こうやって何かをnoteをひたすら書いているけど、誰かに貢献しているわけではない。
単に自分が自分の頭の中身を整理したい(前回の話であれば、観念に形を与えたい)だけだ。自分以外の他の誰かに貢献しよう、価値を提供しようなんて微塵も感じていない。

だから、立ち止まっているように感じるのだ。
かと言って「このひとに価値を提供したい」とか「このひとに貢献したい」みたいな想いがあるわけでもない。

巷ではコーチングが流行っているが、受けたくなる気持ちが少しだけ分かった気がした。この"前に進んでいなさ"が居た堪れないのだ。

「みんながドンドン前に進んでいるのに…」みたいな社会や時代に置いていかれているような、資本主義のスピードについていけない的な焦燥感はない。どちらかというと「罪悪感」に近い居た堪れなさだ。

そういえば最近好きになった彫刻家に舟越 桂がいる。
舟越 桂の言葉に下記ような言葉がある。

自分の居ることに対するつぐないに、何かを一生懸命にやる。
少しは彫刻を作らなければ生きる資格のないような自分。
彫刻をとったら、ぐうたらのすけべでしかない。
何もできなくなった人たちに、あらかじめ与えられる役目も絶対にあると思う。

『個人はみな絶滅危惧種という存在』

ただ他のひとに貢献することなく、価値を提供することなく生きていることの罪悪感を分かってくれているような気がした。彼はその罪悪感の償いとして、創作(つくること)に向き合ったのだ。

「償い」とは面白い表現だ。
この居た堪れなさや罪悪感、原罪の存在は認めた上で、なんなら今後も在り続ける上で、償うのだ。

自己実現とか社会貢献とか小綺麗なものではない。
放っておくと、ただ他者を消費だけして過ごしてしまう自分の罪の「償い」として創作に向かう。

そうやって私も「償い」として、つくることに向かいたい。
なにも日記やエッセイだけがつくれるものではない。
プロダクトだろうが、取材記事だろうが、感想文だろうが、模写だろうが、陶器だろうが、何でもよかろう。フォーマットも、テキストでもイラストでも写真でも音楽でも料理でもよかろう。

だけど、償いとして観念を形にして、他者や社会に晒し続けることでしか、この居た堪れなさは薄まらないのかもしれないのでは。

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