性について考え語ること、冷静と情熱、研究と実践、“スキモノ”と“性嫌悪”の間の話。

少し前、「あ、私いま“性嫌悪の人”扱いされたな」と感じるやりとりがありました。
いろいろなシーンで見られる可能性のある話であり、意味がないので具体例はあげませんが
言いようのない、もやもやとした気持ちになりました。
常に性に対して積極的でなければ嫌悪だ、なんて極端な世界に、私は住んではいないのに。

逆のパターンもあります。

セックスとかコンドームとかアナルとかフェラとか、(もっとエグい言葉やプレイの話も)平気で口にできるお前はスキモノだな、というような言われ方をしたことがありました。
スキモノ、という表現ではなく「性に積極的・オープン」という言葉であれば、それこそ山のように。
これにも、なかなかに複雑な気持ちになりました。
私が様々な語を平熱で、もしくは冷淡に、逆に熱心に、談笑しながら駆使した会話ができるのは
たとえば妊娠や性感染症について学び、その後学習を提供する側になり、コンドームを保健室や学生相談室においてもらう活動をする人になり、つけ方のレクチャーをする人になり、さらにその後はそれがお給料をもらうような仕事にもなっていく中で、
必要性によって、単に学習と経験を重ねていく中で身についただけのものだったりもしているからです。

私の言葉のどこかを切り取ってみても、
性嫌悪であるのか、積極的でオープンであるのかは、他者にはきっと判断ができないでしょう。
そして
性嫌悪であろうと、スキモノであろうと、
どうこう分析されたり、決めつけて語られたりするのは、気持ちのいいものではありません。

それら自体に良いも悪いもないし、
だから
それらであることを根拠に、私の言うことが正当化されたり、言葉自体の価値が下げされたりするべくもないはず、とも思います。

性にかかわる、あらゆるモノ・コトについて学び、考え、言葉を紡ぐことは
おそらくは私のライフワークと言って差し支えのないものだと思うので
これからも続けていくのだろうと思います。
ずっとそうしてきたし、
きっとこれからもそうなのでしょう。
でも、それは私自身が“性”的なものを求めているかどうかとは、また別の軸の話だったりもします。

少し前の私の生活を、もしあますことなく誰かに語ることがあるとすれば
とんでもないスキモノだ、と言われることもあるでしょう。
しかし、もう少し最近の私の生活を語ったとすれば
お前は性嫌悪者なのだな、と言われる可能性も高いと思います。

私自身が、私自身の性についてどう考え、感じ、判断しているのか。
どのような距離感で付き合っていこうとしているのか。
わかるのは、この世界で私だけです。
それを共有し、干渉し合うことを許すのも、私が許した人(たち)だけ。

それなのに、“性”がこの社会の中でどう扱われれば、人間扱いされないような人たちが減るのか、
自由に楽しみ、解放し、もしくは隠し、距離をとれるのか、
そういったことを考え、言葉にしようとすると
なぜかしら、
私自身がどれだけオープンであるのか、もしくは性嫌悪者であるのか、
といったことを語りたがる人があらわれます。

オープンである姿勢を持てば、時に知性や理性や社会性の乏しい未熟な人間のように語られます。
性嫌悪者と見なされれば、性について語る言葉に意味がなく、聞くべき価値がないものであるかのように扱われます。

そのどちらともの経験がありますし、
どちらの言説も、今でも、(私に向けたものではないにしても)頻繁に目にすることがあります。

“推測”は、役にたつこともあるでしょう。
考えや理解の、可能性の幅を広げます。
けれど推測をもとに断定し、論の正誤の根拠にするのであれば、逆効果です。
もはや邪魔者。
害でしかありません。

性について語るとき、人生はそれぞれに様々ですから、様々な立場があるはずです。

自分ごととして語る人。
社会の“あるべき姿”として語る人。

冷静さを大切にして語る人。
情熱を重要なものとして語る人。

研究結果を重んじる人。
実践にこそ価値を置く人。

“スキモノ”である人。
“性嫌悪”である人。

一見、対立しているように思われるそれらは、実は対立ではありません。
つながっているし、
両立できるし、共存できます。
研究結果は実践のためにこそ存在価値がある、と思う気持ちもありますが、
自分の価値観や道徳観ばかりを掲げた実践は、ときに人を殺しますから
研究を踏まえることのない実践は凶器だとも思います。
どちらか一方ばかりが偉い、重要、ということはありません。
研究結果をふまえた、しかしそこを超えた優れた実践者は、たくさんいるでしょう。
そうした実践からまたあらたな研究がなされ、それがまた実践につながっていきます。
“理論と実践は両輪で、どちらも欠かしてはいけない”というのは、対人援助の基礎です。

性に対してオープンな行動をとっている“性嫌悪”の人もいるでしょう。
“性嫌悪”的な言動をとっていても、オープンな心性や欲求を持っている人もいるでしょう。

ゲイにヘイトを飛ばすゲイもいます。
女性を見下し、マウンティングを取りたがる女性もいます。
生活保護を受けたいと思いつつ、生活保護受給をバッシングする人もいます。
「たかだか残業100時間くらいで大袈裟な」と言ったほんの数時間後に、過労で起き上がれなくなる人だっているでしょう。

どうにかしたい、どうにかできる、と思っていても、のっぴきならないことのひとつやふたつ、
誰にだってあり得るし、起こり得ます。

白黒ハッキリしているとは限りません。
渾然一体となっている、とも限りません。
パンダのようであったり、グラデーションであったり、濃淡でモザイク模様になっていたり、マーブル模様になっていることもあります。
日によって、時によって変わることもあるでしょう。
私たちは有機体で、日々細胞は死に、生まれています。
ほんの数ヶ月後には、細胞レベルで別人になれてしまう、可能性すら持っているのですから。

自分の道徳や、価値観や、欲求や、「これくらいいいだろう」と思われるラインを譲るというのは、難しいことです。
それでも、
より脆弱な方、主張することが困難な方、持っている資源が少ない方を切断しないかたちで、デザインしていく必要があります。
無駄な対立はできるだけはぶいて。

難しいと思われる両立を、共存をはからなければ、切り捨てられた人たちはどうなるか。
最悪、死にます。本当に。

無駄な対立をはかり、ぶつかり合うような構造をつくるということは
無駄に死ぬ人をつくるということです。

そういうの、一度やめてみませんか。
ひとまず、
誰かを殺したい、というわけではない人たちだけでも。
誰かを守りたい、と思う人たちだけでも。
“性”が誰かを傷つけることなく、楽しみたい人が楽しめるような社会であってほしいと、思う人たちだけでも。

私は、もう、やめたいです。

冷静と情熱の間、
研究と実践の間、
“スキモノ”と“性嫌悪”の間、
その狭い道を、バランスしながら行きませんか。

中立、なんて無責任な概念ではなく。

いつか自分の道が行き止まりになる、
もしくは断崖絶壁、崖の下に落ちるしかないと気づいてしまったとき、
もう先には進めないとわかってしまったときに、
少しでも残していけるものがあるように。
言葉の届け先があるように。

向こうの世界とこちらの世界は、
もしかしたら、ほんのワンブロック先で、同じ道になっているかもしれませんしね。

おわり。

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