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「子の同意があったかもしれないから近親カンは無罪でも不思議じゃない」という暴論に「親とセックスしたい子なんているわけない」と反論してはいけない理由

実父から性的虐待を受けたことについて裁判を起こしたところ、父親からの暴力は抵抗を不能にするほどではなかったから無罪、という判決が出てしまった。
そういうニュースが流れました。

この件に関し、多くの声は「裁判ひどい!」というものでしたが、
「子どもにも性的自己決定権があるから、親と近親相姦したい子供の人権も守るべき」という声が上がって、
今度はそれに対し「親とセックスしたい子なんて普通いない」「そんな話聞いたことない、わるわけがない」という声が上がる、
という流れが、ツイッター上で見られました。

上述の声を見かけた方々の胸中には、おそらく「どちらの声が”正しい”のか」について、いろいろな思いがめぐったことと思います。

わかります。
冗談じゃねぇよ、と思いますね。

しかし私は、
現在も動いている裁判の話と絡めてこの話を議論することは、それ自体が不当だからやめるべき
というようなことを思っています。

以下で、その理由などちょっと書いておこうかなと思います。
できるだけ手短にできるようにがんばります。


1、子どもの同意や積極的意思があったか否かは関係ない

大前提なのですが、
子に親とセックスするという同意や積極的な意思があったか否かは、取りざたすること自体がおかしいんです。

・親が子にセックスの同意を求める←この時点で虐待
・子が親とセックスしたいと言い出す←応じてしまった時点で虐待

だからです。

つまり
子に同意や積極的意思があったか否かは関係なく、単純に「親はどうしたか」が問題です。
子の問題ではなく、親の問題。
社会として問うべきは子のあり方ではなく、親側のあり方。
社会として注目すべきも、子ではなくて親の側です。

親側の問題の話なのに、子どもの意思や、子どもの意思に基づく「自己決定権」の話にすり替えてはダメです。

親側の問題の話を子どもの話にすり替えてしまうと、親側の責任や強者性が透明化されます。

子がどうであっても関係ないのに子の話をしてしまったら、「子の言動によっては、親がそうなっちゃうのもまぁ仕方ないよね」みたいな思考の土台を強化してしまいます。

つくられてはいけない土台は、乗るのではなく、壊すことが大切です。

親からの虐待に関し、子の言動をどうこういうこと自体が二次加害ですしね。


2、親とのセックスに同意する・積極的に求めてしまう子は、いるかもしれない。

いるかもしれません。

「世界中に1人も絶対にいない」って、本当に言い切れますか?
範囲を狭めてもいいです。「日本中に1人も絶対にいない」って、言えますか?

同意や積極的勧誘をする子がいたとして、その内実は様々かと思います。

洗脳かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
わかりません。

でも、考えてみて欲しいのです。

いずれにしても、親とそうした状況に至ってしまうと、子の生活における負担・各種リスクは飛躍的に増大します。
たとえ子が望んで至った行為だったとしても、困難に当たる可能性があるのです。

望んで至った場合でさえ、
・妊娠した
・妊娠させてしまった
・親類にバレて脅されている

もしかしたら、
・親とはやめて彼氏・彼女ひとすじにしたいのに、親が認めてくれなくて困ってる
とかの可能性も。

絶対にないとは言い切れません。

その相談を、子が周囲の誰かにしてくれたら、これは介入のチャンスです。

でも、もしその具体的困難を抱えているタイミングで
「そんな子の話、きいたことない」
「そんな異常な子がいるわけない」
「そんな子がいたらやばいよね」
という言葉を、目にしてしまったら。

「異常」「いるわけない」というのは、強力な排除の言葉です。

親とのセックスが「”普通”ではない」可能性くらい、子どもだってきっとわかっています。少なくとも、頭のどこかでは。
でも、世間ではそういうものなのだと知っていることと、
相談しようとしているタイミングで具体的な排除の言葉と出会ってしまうこととの間には、大きな差があります。

「そんな異常な子がいるわけない」と言われてしまったら、相談なんてしづらいことこの上ないです。

「親とセックスを望む子の存在について、望まない子と等しく一般的にいる可能性を前提にするのはおかしい」ということ、
その通りだと思うし、
実在の裁判を下敷きにして恣意的な主張がされていた場合、それを批判するためにも言いたくなること、あるに決まってるし
実際、行っていく必要もあるとは思うのですが
どうか、どうか
相談や介入のチャンスを、道のりを残せる形でそれをして欲しい。


3、洗脳や脅迫によってその状況を選ばなければならなかった子にも、排除の言葉は響いてしまう

この点は、上述した話と一緒です。

何らかの被害にあったり、一般的とされる状況から外れた家庭環境に育ったりしていると、「自分は他の人とは違う」という大きな疎外感や、決定的な断絶を感じることがあります。
感じることがあるというか、
疎外感と断絶の中で生きています。

たった1回のSOSでも命がけで
それは大抵の場合、絶望的な環境の中でようやく出されたものだったりします。
途方も無い努力や勇気や、もしかしたら運の良さも重なって、やっと出されるものです。

もとからあまりにも大きな疎外感や断絶を抱えているのに、
その上、さらに「異常」「いるわけない」という言葉のバリアではじき出されてしまったら、
SOSを出すことは、さらに困難になってしまう可能性があります。

もちろん
「その環境は望ましいものではないと、知っています」
「あなたのされている扱いが不当であると、理解しています」
とメッセージすることは
被害者の信頼性を高め、「SOSを出しても大丈夫かもしれない」と思える、そうしてSOSの発信に至れる可能性をあげる
こととも思います。

私が思うのは
「異常だ」「いるわけない」という言葉は、それには当てはまらない可能性が高いのではないか、ということです。


「異常だと思う」「自分の知る限りではいないし、いるわけないと思う」と発信すること自体が悪いわけではなく、

ただただ、議論の場の設定、文脈、発信の方法やその表現方法を、少し気をつけたい……という感じです。

「子どもだってのぞんでたかもしれないしー」って、都合よく恣意的に使う人たちは
その発言によって、どれだけ子どもたちが困難な状況に押しやられるかを考えられていないから
好き勝手言えてしまう。

そういう好き勝手やってる言説に対し、カウンターかける側ばかりがいつもいろいろ気にしなければならない、というのは
本当に心苦しいし、全くもってフェアじゃない、とも思うのですが
ことは、子どものことなので。

今も被害にあっている子がいて、
まして今回は、実際に今もまだ動いている裁判を発端にした話題なので。

慎重さをもちたいです。

大事なのは、議論をふかめる・たたかわせることではなく、全ての子どもたちのおかれた環境をより安心・安全なものにしていくことなので。

本当に難しいことではありますが、気をつけていきたいと思います。


おしまい。

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