_ダメ女教室_

#ダメ女教室 は、damaged womenがシスターフッドで人生を殴り返す、炊事場からの反撃の冒険譚でした、という話

最近話題の『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』(著;キャスリーン・フリン、訳;村井理子)(きこ書房)を読んだ。

この本との出会いは、実は発売前にある。
おそらくプロモーションも兼ねて、発売に先んじて、ツイッターでは「#ダメ女教室」というタグが稼働していたのだ。

そのタグに触発されて、『“料理すること”ができなかった話』という記事を書いた。
端的に言えば、
「料理なんて別にできなくてもいいじゃん」と言っていた私が、その実、
いかに料理することを恐れていたか、
どうして克服したいと思ったか、ということについて書いたものだ。

タグをつけて投稿したため、訳者さんと編集者さんの目にとまり、
「佐原さん、まさに! 本に出てくる女性たちといっしょ!」
という感じのコメントをいただいた。

「そうなのか、やっぱり!」と、
「ついにこの、不便で所在のない困難に日の目があたるのか」と、発売をずっと楽しみにしていたのだ。

そんな本書は、私の“予想の斜め上の、裏側くらい”の場所から始まった。最初の一文は、こうだ。

「スーパーで尾行なんてありえない。」

尾行?

えっ、なんか不穏。

不穏から始まった本書は、読み進めるたびにそのレベルを増していった。
語の意味とはまた別の、私にとっては、より深刻な意味で。

たとえば冷凍食品や、温めるだけで食べられるようなもの、についての評として「難しいと思わされている」という語を見た時、
私が感じたのは反感だった。

「でも、そうは言ってもさ、ほんの数秒の、調味料を取り出して混ぜ合わせる、たったそれだけのひと手間が辛い、みたいな瞬間が、たくさんあるじゃん

仕事を終え、園に子どもを迎えに行き、走り回りたい子どもを我慢させながら買い物をして、クタクタで家に帰ってきて、
それからやっとで、我慢し続けの時間から解き放たれた子どもが空腹に騒ぐのを耳にしながら料理をする。
クタクタでも、座っている暇はない。
そんな時、“すでに調味料が合わさっている”というだけのことが、どれだけ私を助けてくれるか。

そんなことを思い、モヤモヤを抱えながら読み進めた。

モヤモヤしながらでも楽しめるほど、エキサイティングだった。
包丁を選ぶ基準は“いい感じかどうか”だし、
エプロンをつけてキッチンに並ぶ女たちの手には、みんな紙オムツが握られているのだ。
キッチンで紙オムツって!

そして読み進めるうちに、私は気付くのだ。
“教える”側に立つ著者の女性もまた、完璧ではなく、必ずしも正しいわけでもないということに。

私にとって第一のインパクトあるシーンは、“4つめの目盛り”の最後のページでやってきた。
書かれていたのは、「カレーってルーなしで作ることができるの?」という声だ。

それは、ほんの1年前までの私の感覚そのものだった。
「カレーを作ること」=「最後にカレールーを溶かすこと」という図式を信じきっていて、疑うことすら思い浮かばなかった。
しかし私は今、カレーはカレー粉で作っている。ルーはもう随分と使っていない。
「私も気づけば、ずいぶんと遠くまで来ていたのだな」と思った。

途方もなく面倒だと思われていた、カレー粉を使うという“ひと手間”をかけられるための
その心の余裕を手に入れるまでには、私にだってたくさんの戦いがあった。

もしかしたら私もまだ、今いるここは、旅の途中なのかもしれない。
冷凍食品が必要不可欠である、という考えは、もしかしたらこれも呪いなのかも?

そんなことを思いながら、登場する女性たちみんなの人生を読み進めたのだ。

読み終えた結論から言えば、「冷凍食品が必要不可欠である」というのは、おそらく、たしかに、呪いだった。
読むまで思いつきもしなかったけれど、たとえばストッカーの中に常備されている、4袋入りのホットケーキミックスの粉だってそう。
でも、本書で結論された呪いへの対処法は、単純に捨てることや、やめることだけではなかった。

つまりは、付き合い方を考える、ということだ。
私の生活に、それは本当に必要なのかどうか。
必要だったとして、その付き合う相手は、本当に今そこに仕舞われているそいつでいいのかどうか、ということ。
たとえばそれが呪いなのだとしても、それをどうやって抱えて、対処して付き合って生きて行くのか、自分で考えて決めてみるということ。

今の私の生活にとって、冷凍食品は欠かせない。
ただし、選ぶのは減塩のものが増えた。
それでいいのだと思う。

実はもうひとつ、ずっと気がかりだったことがある。
本書を手に取る前、タグを見かけたときから気になっていたことだ。

「ダメ女教室、の、“ダメ女”って言葉が気にくわない」。

料理をしない、できないのって、本当にダメなことなんだろうか。
ダメって思われて当然のこと?
ダメって思ってしまうのが普通のことなの?

本書に出てくる女性たちは、みんな“料理すること”に対し、何かしらの欠点を抱えていた。
たしかに“ダメ”な女たちだ。

それぞれに様々な人生を抱えた女性たち。
パターンはバラバラだけれど、彼女たちには共通点があって、それは
みんながどこかしらにdamageを抱えている、ということだった。

傷ついて、へこんでいて、ボコボコに殴られたあとみたいに縮こまってかたくなって、自分の身を守らなければいけなくなっている。傷口をかばい、隠すことがサバイブの必須条件。

そんな生活。そんな人生。私にだって、こんなにも覚えがある。

億劫と恐怖は時々似ている。
私の極度の面倒くさがりの、そのうちの何割かは、今だってきっと恐怖で出来てるのだろう。

本書はある意味、“料理教室の記録”ではない。
これは、冒険の書なのだ。戦いの旅の記録。
きっと、そういう類のもの。
人生にボコボコにされた女性たちが、立ち上がり、たたかう力を取り戻すまでの冒険譚。
力を取り戻すための物語。

ハッとした。
もしかして“ダメ女”って、原題ではそんな感じだったのは?
damaged women、みたいな。

思いついて、急いで表紙を確認した。

……もちろん、そんな語は書かれてはいなかった。
けれど原題を確認して、私の感覚は間違ってはいなかったのだな、とも確信した。

原題は『The Kitchen Counter Cooking School』
炊事場の反撃者たちの料理教室。

そうだ。そうだよね。
よくみたら、表紙の折りの部分にも書かれていた。
「10人の人生を賭けた、リベンジがはじまる。」
リベンジ。
その通りの作品だった。

『ダメ女たちの料理教室』はまた、まごうことなく、シスターフッドの物語でもある。

ドラマ『カルテット』が言葉にしてくれた
「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」
が真実なのと同じくらいの強度を持って、繰り返し語られている。

キッチンで涙して、それでもそこに再び立った私たちは、きっと明日もまた『ハッピーバースデー』を2回うたえる、ということ。
(鼻歌だってうたえるかもしれない)

そのことを、この本に出てくる女性たちみんなが教えてくれていた。

パンのかおりは、反撃ののろしだ。
エプロンに突っ込んだ紙オムツは賢者の石だし、右手に握るfeelingの合った包丁は、最強の相棒だ。

私もまだまだ、たたかいの旅の途中。

今年の目標は、魚と丸鶏をさばいてみること。
オーブンは今月中に掃除をする。
掃除をしたらまず、パンを焼く。

じゃがいもを飛ばすたびに、私たちは、かつて自分たちを傷つけたモノたちに打ち勝てる。
そうやって私も、自分の人生を取り戻していくのだ。

おしまい。

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佐原チハル(アジールワークス)

書き仕事&書店員。元ユースワーカー。2013年秋、一児出産。BL好き。胃弱の食いしん坊。お仕事ご依頼は saharatiharu@gmail.com

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