傷ついた分だけやさしくなるわけじゃない

「人は傷ついた分だけやさしくなれる、わけではない」という祝福

“親がまともじゃないと、子どももまともな人間にはななない”

最近そんな言葉を、本当に耳にしてしまう機会がありました。
https://note.mu/tiharu/n/nc5879ba8ed49

その言葉は、言い方をかえて繰り返されました。
「親に常識がないと、常識のない子に育つ」。
「ちゃんとした親じゃないのに、ちゃんとした子どもになるわけがない。まっとうな大人になれるわけがない」。
あれですね、
犯罪者の子は犯罪者になるに決まってる、みたいな。

こんな古いタイプの呪いをまだ吐く輩がいるのか、と思ってびっくりしたのですが、
この話を一緒に聞いていた周囲には、頷く人たちがたくさん。
そうでした。
この呪いはまだ、現役なのでした。

「まともに育てられなかった子どもは、まともな人間にはなれない」
こんな呪いが幅を利かせる世界である一方、
私たちは、こんな呪文を目にすることもあります。

「人は、傷ついた分だけやさしくなれる」
「辛い経験をした分、人を大切にできる」
「家族がいなかったぶん、より深く愛することができる」

冒頭で書いたような呪いが現役のこんな社会の中では、これらはもしかしたら、救いの言葉だったのかもしれません。
でも、これが必ずしも真実じゃないってことも、きっともう周知の事実ですよね。

だって人は、自分がした苦労を引き合いに
「あいつはなんの苦労もなく**している、けしからん!」
とか、言ったり思ったりしちゃうことがあります。
「後輩なら苦労するのが当たり前なのに、平等だなんて許せない!」
とか。
そんな風になってしまっている人を見たこと、あるでしょう。
誰かの苦労や貧困を
「自分はこうできた(んだから、できるでしょ、普通)」
「自分はのりこえた(のに、できないでいるのは甘え)」
と、
悪意すらなく言えてしまう人たちがいること。

こうすればできるよ、というhowtoの共有が、繊細な配慮なしに行われてしまうことで
支援へのアクセスが曇り、しなくていい苦労をしなければならない人たちが増えてしまうことに、
想像の及ばない人たちがいること。

苦労なんて、していたって、この程度だったりもするんですよね。

「苦労を知った人は、強くなれる」とかのパターンもありますね。

甘やかして育てるとよくないから、若い時の苦労は買ってでもしろ、みたいな。
過度の甘やかしは、それもそれで虐待(不適切なかかわりかた)なわけですが、
甘やかさない=特段の苦役を与える、みたいな発想、おかしいですよね。
どうして0か100か、なのか。
白と黒以外にグレーという選択肢もあるし、
むしろ世界は虹色、極彩色なのに。

過度の苦労や傷つきは、そのまま人生を損ねることがあります。
自分のされてきた扱われ方のせいで、自分がどれだけのものを被っていたのか、
自覚するだけで何十年もかかることだって、あります。
お腹のど真ん中に大きな穴を開けたまま、
あいた穴をふさぐ術もないまま、
血も内臓も飛び散らせながら死ぬまで生きるしかないような、そんな人生になることもあります。

自分の経験してきた苦労が無駄だった、というのは、辛いでしょうか。
辛いかもしれないですね。
ずっと続いていた途方もない苦しみに、価値も意味もないと思うこと。
「わからない」ことが恐怖であるのと同じように、
長く行われてきた「理不尽さ」もまた同じく、恐怖だから。

理不尽に悪い目にあう、なんてこと
怖いから、信じたくないから、
被害者の落ち度を探したり、
理不尽の中に「でもおかげで今はこうなれている」という希望を探したり、するのでしょうし。

そうした希望が残ることも、たしかにあるでしょう。
でも、それはただの結果論です。
因果関係が見出せるケースも含まれていた、というだけで、定理ではないのです。

「人は傷ついた分だけやさしくなれる、わけではない」ということ。
傷ついた過去、それ自体に価値などないということ。

虚しい気持ちになることもあるでしょう。
そうされていた日々は、絶対に絶対に、もうかえってはこないものだから。

でもこの事実は、私にとっては祝福でもありました。

私の苦しかった過去には、「価値」も「意味」もありません。
だからこそ私は、過去を
100%不当なものである、と断言もできました。
あんな経験は絶対に不要だった、と自信を持てます。

私は、今の私がけっこう気に入っています。
昔は「いろいろな経験があったからこそ、今の私がいるんだし」と思っていました。
でも今は
「あんな経験がなくたって、私はきっと私だったろう」とも思っています。
私は私だから、
どんな経験をしていても、いなくても、
きっと夫にも出会えていて、お互いをパートナーにしようと思えていて、きっときっと、子どもにも出会えていた。
そんな気もしているのです。

過去の経験には、必ずしも、意味も価値もありません。
だからこそ
「まっとうな育てられ方をしたのじゃなくたって、大丈夫」
だって、信じられる気もしているのです。

虐待親に育てられたから、自分も子どもに虐待してしまう。
そんなことはありません。
ただ、ダメ親を“反面教師にして、適切な子育てをする”ようなことは、実質難しいから、
寄る辺ない分、余分な苦労はありますね。
(“ダメ”がわかっても、“正しい”はわからないし、自分の経験以外のものがダメなのかそうでないのかもわからないから、大丈夫なはずのものに、過剰に反応してしまうこともあります)
ダメ親を持つ経験は、マイナスへの作用が強いです。
でも、大丈夫にも、なれることもあります。
ひとりでは無理でも他の、適切な寄る辺を探したいです。

親が犯罪者だと、子どもも犯罪者になる。
そんなことはありません。
政治家や何かとお間違えなのではないですかね。

親に常識がないと、常識のない人間に育つ。
そんなことはありません。
っていうか、常識ってなんですか。
時代によって変わったりするものなんじゃないですか。
常識なんかより、大切なのは良識です。
(良識は、「健全」な考え方、なんて意味ではなくて)

親がまっとうでないと、まっとうな子に育たない。
そんなことはありません。
そんな偏見に基づく価値観で平気で人に向かえてしまう、そうした言動を平気で人に向けられてしまう人こそ、それが“まっとう”な対応なのかどうか、考え直してみたほうがよさそうです。

過去からの延長上しか歩けない私たちですが、
私たちはジャンプもできるし、スキップだってできるし、飛行船の旅だって楽しんでみたいです。
過去に、今の主役の座まで明け渡す必要はないと、いつも信じていたいのです。
奪われてしまうときもあるかもしれないけど、抵抗の準備をしたい。
もっと抗えるための、力と、言葉と、気持ちを、蓄えておきたいです。

傷ついたからって、
“みんな”よりやさしくなんてもう、なくていいでしょう。
よりたくさん愛せるような人間じゃなくていいし、
他人の気持ちに、人一倍よりそえる人間じゃなくてもいいんじゃないか。
そんな風に思うのです。

辛い経験をしたぶん、そういう人間じゃなきゃ“わりに合わない”。
そう感じることもあるかもしれないけど、でも、
よりよい人間じゃなきゃいけない、価値がないなんて、
そんなわけはない
のだから。

歩き方を教わらなかった私たちも。
たとえ機能する足がもうついていなくても、
どうにかこうにか進みさえすれば、そこはもう道です。
逃げ道だって確保しつつ、時には退却だってしながら。

少しの甘えと良識は、武器です。
私はその武器を手にしていたい。
はなをすすりながら、ハミングしながら、今日も行くのです。


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