性教育

性教育、誰がすればいいんだ問題について思うこと

先日ツイッターで、職場における生理(月経)への無理解・無配慮についての話題が出ていました。

こうした、生理や生理用品への無理解の話題が出るたびに言われる言葉があります。
「性教育が必要」

まったくもって、その通りだと思います。
性教育はいま、圧倒的に不足していて、そのせいで様々な侵害さえおきています。
性教育が必要、というときに、異論はありません。

同時に、もう一歩踏み込まなきゃ、と思う気持ちになることも多いです。

「性教育が必要」という時、みなさんは“誰が”することを想定していますか?

親ですか?
学校ですか?
それとも誰か他の、第三者ですか?

「みんなができるのがいい」

そういう答えを目にしたこともあります。
これも間違いないと思います。というか、私もそう思います。
でも教育って、「誰に対して、どんな内容を、どんなものを目指して行うか」が重要ですよね。
というか、そういう点がハッキリしていないものは、教育とは呼べないはずです。
教育と呼べるものであるためには、目的や、意図や、計画が必要なのです。
“みんなが”“みんなに”できるのは、それはもちろんいいことですが
この、すでに性教育不足の社会の中では
あまりにも具体性にかけるのでは、と、不安に思うのです。
特に、主体に“みんな”を置いてしまうことで、責任の分散にならないか。
“私”の責任を軽く見積もることにつながらないか。
という不安
です。

だから
“みんなが性について知っていて、子ども(や、子どもでなくても、若い人や、知識がない・知識が欲しいと思っている人に)教えられるようになる”というような状態を考えたときに
誰が、どういう役割で関われると望ましいのか、
もうほんの少しだけ踏み込んで考えてみたい。

……と、いうようなことを思いながら書きました。

性教育では
どんなことを教えるべきなのか、
教える際にはどんなことに気をつけるべきなのか、
どうすれば教えられるようになるのか、
みたいな話について思うことは、また別の機会に。

今回は、「なぜ性教育が必要なのか」「誰がそれをするのか」について思ったこと、の話です。


どうして性教育が必要なのか


性教育が必要な理由については、ある程度は明確なのかなと思います。

自分と、自分にかかわる人たちの身体を守り、適切に扱うため

です。

一番大事なのは、自分を守るためです。
性感染症や、望まない妊娠や、不適切に扱われることから身を守り
適切に、より健康な状態でいるためにケアできるようになるためです。

そして、自分と同様に、自分とかかわる誰かのことをも守れるためですね。

この“誰か”は、
パートナーだったり、サービスする人・される人だったり、セックスすることもある友達だったり、ついさっき出会った人だったり、
関係性はいろいろでしょうが
どんな関係性の相手であっても、
自分の、また相手の性的な健康を損ねるような行為は、避けられたほうがいいです。

ただ、
知識があることと、適切な配慮ができるかどうかは、別問題だとも思います。
別問題というか、別の次元にある話なのでは、と。

だって、自分がよく知らない事象や人物に関する事柄であっても、配慮は適切にできなきゃいけないんですよ。

男性が月経について無知であったとしても、
女性本人の声を適切に扱うことさえできれば、配慮・対処は、できるはずなんです。

月経にかかわらず、
障害や、病気や、その他者個人のもつ様々な困難を、私たちには理解しきることができません。
女性同士だって、自分以外の月経事情なんてわからないんです。
(だから、女性同士であっても“月経への無理解”は起こっています)

理解は、できていた方がいいです。
別問題だけど、つながっている話ではあるので
知っていることで適切に配慮できる場面や機会は増えるでしょうし、
適切さのレベルも上がるでしょう。
そこが教育の目的でもあります。

でも“知らないこと”は、配慮しないでいい理由にはならないんです。

男/女、とわけるまでもなく
自分が自分以外の誰かのことを理解しきるなんて、到底不可能です。
どれだけ性教育がすすんでも、
適切な配慮・対処ができるかどうかは、また別の軸の話としてすすめることが必要と思います。

たとえば
「女の・月経についての声は、耳に入れ聞き届けるべきものである」という社会的認識がすすむようにすること
とか。

月経への適切な配慮・対処がされるために必要なのは、知識よりも
“女のこと”や“女の声”が、取るに足らないもの扱いされない風潮
なのだと思います。

生理休暇って制度があるのに、実質使えないっていうのは、そういうことですよね。
(特に非正規社員だと、そのまま給与ダウンになるのでそもそも選択できない、という制度的な欠点もあるでしょう)

法律で禁止されているにもかかわらず
マタハラが横行し、妊娠・出産を機に退職したりポジションを変えられて給与が下げられたりし、
一度辞めれば、退職前と同程度やそれ以上の給与の見込みが立ちにくい職しか基本的に用意されていないような状況があるのと、結局は同じ理由なのでは、と思います。

法律や制度で守られているはずの、その先に
見えない壁があるんですね。
私たちの周りにあるのは、ガラスの天井だけじゃないです。
ガラスの壁も、四方に張り巡らされています。

要は舐められているんですね。
腹立たしい。

性教育によって、性の知識が深まることによって
こうした腐った溝も綺麗になってくれればよいのですが
その一方で、同時に、こういうガラスの壁を粉砕していくようなことも必要なのだと思います。


性教育は、誰がするのか


性教育を行う対象を、子どもに限定して(仮定して)すすめます。
性教育は、誰がするべきなのか。

まず浮かぶのは、家庭でしょうか。
たしかに家庭であれば、
その子どもの発達段階も集団教育の場よりも細かに見られるし、
第二次性徴のはじまってきたタイミング・様子も見えやすいかもしれません。

でも家庭で性教育するって、難しいこともないですか?
家族とは、家族だからこそ性の話はしたくない、と感じる子どもがいても、おかしくないですよね。
あとは、たとえば
異性の親から自分の性の話はされたくない、ってことはありませんか?
でも、家庭において実質的に父親不在であることが多いこの国で
父親から息子へ、的な性教育って、本当に機能しますか?
(日常的な信頼感を育むのも難しいのに?)
母親から息子に、つまり異性の家族から聞くのは気恥ずかしくて辛い、みたいなことはありませんか? 父親から娘に生理の話をするって、困難はありませんか?
同性なら大丈夫ってわけでもない、こともあるのでは?
そもそも、同性の親がいない家庭もありますよね。
同性の親であっても、性教育ができるとも限らないですよね。
だって、今もう
満足に性教育を受けることのないまま、親になっている人が少なくないのですから。
そんなんで、“正しい”知識なんて、知らなくても当然ですよね。
知らないことは教えられません。
そもそも家族がいない人はどうしますか?
毒親(虐待親)、中でも、性虐待をする親も、いますよね。

機能不全家庭でなくとも、性教育ができる、という保障はありません。知識と機会と、関係性の種類がそれに適したものとして存在しているかどうか。

もはや、運任せのレベルになり得る話です。

運でしかないものに、性教育だなんて大事なものを「保障するべし」とは言えません。

家庭に性教育の全責任をおいてしまうのは、無理があると思います。

家庭がダメなら、では、学校ではどうでしょうか。

小学校・中学校は、義務教育です。
様々な理由で学校に通わない・通えない子は少なくはありませんが
家庭よりは制度化されている、
保障としてはより手堅い存在のようにも思われます。

でも性の話って、
集団相手にするのが難しいことってありますよね。
“性”の捉え方が全然違う個人の集まり、である集団に対して同一の話をするのって、難しいです。
(たとえば、セックス経験者と初潮や精通前の子が一緒の教室にいたりするわけです)
月経や妊娠に関し、受け止め方の大きく違う対象に同時に同一の話をするのって、それが価値を持つこともある一方、下手をすれば「誰にも響かない」内容になっちゃうリスクもあります。
そもそも先生たちも、性教育ってちゃんと受けてきていますか?
教えられるだけの知識を、本当に持っていますか?
教室の中には、性的虐待を受けている子がいたり、中絶経験のある子がいたりするって、配慮して話せますか?
セクシュアルマイノリティの子がいる、という点は?
現状の“教科書通り”では、侵害してしまう子が出てしまうリスクがあるのですよね。
簡単ではないです。

※ 保健体育の教科書については、セクシュアルマイノリティの記述に関し、改善が行われるための活動があるようです。
署名やパブコメなどの情報を見たことがある方も少なくないかと思います。

“最低限について話すチャンスが保障されやすい”場ではありますが、
性の話って、より個別対応の必要なものなので
学校という場だと、それをするのが難しいです。
より少数単位を相手にしようとした結果、たとえば“男女でわける”とかしちゃうと
弊害も大きいですし。

家でも学校でも、難しい点が多いですね。
じゃあ、どうすればいいのでしょう?

第三の選択肢について、考えてみたいと思います。

たとえば、図書室。
でも図書室にある本って、必ずしも情報が新しいとは限りません。
学校図書館の運営・管理は、いま大変に難しい状況にあるとも聞いていますし。

たとえば、行政発行のパンフレット。
……あれ、子どもや若い人達に読ませる気ねぇだろ、って感じのものが多くないですか。
「ダサい」(対象年齢には興味関心の低いデザインである)ことは、
それだけで排除につながることがあります。
ダサくても、言葉づかいが難しくても、
それでも読もうと思える子以外がとりこぼされます。

インターネットはどうでしょうか。
これに関しては、私はかなりの期待を持っています。
インターネットに接続できる環境さえあれば、
ひとりで、いつでも、どこででも、情報が手に入ります。
しかし、インターネットの世界には、そうでない場所と比べ
トンデモな情報がたくさんあふれています。
生理で言ったら、おまたぢからとか、布ナプキンじゃないと子宮が冷えるとか。
自分の性が、欲情される“客体”としてしか扱われていないような情報に溺れてしまうかもしれません。
女性や“童貞”への蔑視にあふれた情報も多いです。

さて、
だから、じゃあ、どうすればいいのでしょうね。

「難しくても、やらなきゃいけないんだから、やるんだよ!」という意見も、あるでしょう。

大人はそれでいいかもしれません。でも、子どもにそれを強いるのは違うと思うのです。

子どもが、知識を無理なく、しっかりと身につけるためには、子どもが学びたいと思える環境や、安心して学べる環境が必要です。

環境を用意することだって、大人の役目だと思うのです。

家庭にも、学校にも、第三のナニカにも、
それぞれ長所があり、短所がありましたよね。

この中の、どこかだけに大きな比重を置こうとすると崩れてしまうので
“3つのうち、2つは担保されてるよ”というような状態が作れたらいいのではないかな、と思いました。

家庭がダメでも、学校で基礎を教わり、“その他”からの情報で知識を補える。
学校がダメでも、家庭で教わり“その他”の場所から知識を補足することができる。
”その他”の場所が足を運べる範囲内になくても、学校と家庭とで、“基本的な仕組み”と“自分にカスタマイズされた情報”とを得ることができる。

みたいな。

3つの全部が機能していれば最高ですが、
とりあえず2つが活きていれば、どうにかなる。

どうにかならなそうなトラブルに見舞われた時にも、外部からのその発見がしやすくなる。
子どもにとって、1つしか頼れる先がないというのは、なんとも心もとない状況ではないかと思います。

なお、第三の道である“その他”ですが、
図書室、行政のパンフレット、インターネットのほかにも
・図書館
・コミュニティセンター
などもあり得るかもしれません。

あとは、学校内ではありますが
保健室
が、第三の道としての機能を果たしてくれることもあるかもしれませんね。
場合によっては、
・友達の家
・近所の店
などになることも、あるのかもしれません。

コミュニティセンターに関しては、
性の知識を“保障している”というレベルで出している場所となると、
セクシュアルマイノリティ向けのものか、
セクシュアリティにこだわらない“若者向け”では、私個人では、1カ所しか思い当たる場所がありません。
(イベント的に行っている場所や、スタッフが常駐でない場所であれば、もう少しくらいは、心当たりくらいはありますが)

家庭、学校、“その他”のそれぞれで、ちゃんと性教育を行えるようになるには

・教え手である自分に、まずは正しい知識があること
・正しい知識を得るためのリテラシーを身につけること
・対象者の理解度や発達段階や興味関心や社会情勢を見て、どういう情報を伝えることが必要なのかを見極めること
・対象者に“伝わる”手法を選ぶこと
・対象者に“伝えてはいけないメッセージ”に意識的であること

など、
またいくつかクリアしなければならないことがありますね。

そして、”自分がどの立場で関わるのか”について、自覚的であること

こういう話って
あまり体系だってまとめられている印象が実はないのですが
個別に役に立ちそうと思えるページ・情報源もいくつかありますので
それもまたいつか、別の機会で、まとめておいてみたいと思います。

「どこにいけば正しい情報に出会えるか」という
情報リテラシー、情報の探し方については、
教える側の大人だけでなく、インターネットの網の中を進んで行くことになるかもしれない子どもたちにも、十分に身につけて欲しい知識ではありますね。

「性教育ではどういう内容を扱えばいいのか」も、またいつか、別の機会で。

結局は、
「みんなが性教育できるようになれるのがいいよね」
っていう、
最初に自分自身が「微妙」みたいに書いた結論になりました。
自分自身でも、こういう結果が出るんだろうこともわかっていました。
それでも一度、子どもたちが性を学べる環境について枠組みの脳内整理ができたので
まぁこれはこれでよかったのかな、とも思います。

ここから先は、さらなる雑記です。

「性教育ができないのは**のせいだ」という発言について、思うことを。


性教育ができないのは、誰のせい?


最近見かけるようになったのですけれども
「性教育ができないのは、コンビニのエロ本ごときで騒ぐ、性が“嫌い”な奴ら(大抵は文脈的に女性が想定されている)のせい」
という言い分があるようです。

流行なんですかね。
わりと、しばしば見かけます。

性教育ができない理由、に関しては
明確に、保守勢力のせいですよ。と認識しています。
とりわけ
女性の性のあり方を管理し、コントロールしたい人たち。
人工妊娠中絶の要件から「経済的理由」を排除し、
実質的に中絶禁止状態を作ろうとしているような人たち。
(現状でも日本は、人工妊娠中絶は禁止されていて、『母体保護法』で定められた、母体の命・健康・人生を損ねると認められた一定条件を満たした場合のみ、特例的に認められている、という状況ですが……)

昔から、産み手の出産機能は管理され続けてきたわけですが、
近年で大きかったのは、やはり
七生養護事件
の影響かと思います。

知的障害のある子どもたちへの性教育教材が
「過激」
「セックス人形」
などと揶揄され、都教委や新聞社によって大きく批判されたものです。
この事件以来
いわゆる“いきすぎた性教育”についての抑圧は特に強まり
性教育環境は、ひどく、ひどく厳しいものになったと認識しています。

こちらは、裁判でもすでに
都教委らの判断は適切ではなかった、とされているのですが
性教育界隈は、依然として
保守的・禁欲的・“道徳”的で、惨憺たるありさま
のままです。

性教育の不備については“コンビニのエロ本ごときで騒ぐ奴ら”のせいではないので、
揶揄したり攻撃したりしたいだけでなく
性教育が行われるべき、と本当に思うのであれば
文句を言う先は、よく確認しておいたほうがいいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

おしまい。

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