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「fenómeno ー 細谷真大(2)」 

時系列がうねるような章の始まりになるのだが、細谷真大の関係者たちの力を借りて、細谷を巡る談話や証言を集めた。この項は前項との文脈から外れたエクストラ版として残したい。
 
この項は現在大分トリニータでコーチを務める岩瀬健氏の回答からスタートする。

それは2019年。

当時の岩瀬氏はトップチームの任から離れ、柏レイソルアカデミーの「ヘッド・オブ・コーチ」として再始動していた頃。当時の展望に耳を傾けていた。その取材の中でJユース出身の現役日本代表の数名の選手の名を挙げて、「例えば、レイソルアカデミーからも彼らのような、『超ユース級』の選手は現れますか?」という、こちらの抽象的な問いに岩瀬氏は強く頷いた。
 
「出てきますよ」

2018年柏レイソル監督時代の岩瀬健氏(大分)

問いの意図としてアカデミーからの昇格選手たちは今でこそそれぞれの価値を持つ選手となったが、当時の彼らはアカデミーの育成方針の下で育ったパススキルや戦術眼に優れた「ボール・プレイヤー」が中心だった。若き彼らのステップアップに誇らしく見守った一方で、「なぜ、FWやアタッカー型の昇格選手が少ないのか?」という素朴な疑問は消えず、その理由を問うこちらに微笑んだ岩瀬氏はこう応えてくれた。
 
「アカデミーでプレーいる選手たちの中には素晴らしい能力を持った選手がたくさんいます。そして、私たちは彼らやアカデミー指導者たちに『幅を広げよう』と言っています。ただ、私たちはトップチームやそれ以上のステージで活躍するような選手を『作る』ことはできないんです。なぜなら、そういった選手はたちというなは自然と自分の力で『出てくる』ものですから。私たちは彼らを見守り、成長の手助けをしているようなものなんです。『選手を作る』ことなんてできない」
 
そして、もう一度、「でも、きっと、出てきますよ」と繰り返した。

 それは細谷を、あるいは他の選手を指すのかは今となっては分からずじまいではあるのだが、その後、細谷はこの2019年の第2種登録から、トップ昇格を果たしていくその寸前、細谷にとって、アカデミーにとって、ある変化が起きる。これらは岩瀬氏が求めた「幅」の一部なのだが、強かに続けてきた細谷の成長はさらに加速した。

2種登録選手時代の細谷真&佐々木&鵜木

この頃のレイソルアカデミーは「パスを繋ぎ、攻撃的なサッカーを」という育成哲学を追求していた頃。99年組の加藤匠人や落合陸、中川創(琉球)らが最上級生となり、98年組の森海渡らが合流する頃には育成哲学とはまた別の「勝負論」の文脈では壁に直面していたように映っていた。

だが、これは「パスサッカー」が直面した壁であり、これはレイソルアカデミー云々という話ではない領域での壁だった。世界中で揃いつつあったパスサッカーへの「対策」は他のどんな戦術より先に日本へ伝来していた。

00年組と。森海渡や山田雄士、杉井颯らの姿も

その「対策」に対する対策としては、彼らが永く得意としていた、DFから縦パスを入れ攻撃の入口を作るビルドアップを用いるよりも、DFラインとMFたちが重心を後方に据えながら相手を引き込み、相手陣内に発生したスペースへ向けてボールを運んで起点を作り、速攻や本来のボール保持を展開するなどの進化的な「幅」が生まれた。これらの攻撃と本来の戦術的セカンドオプションの「ダイレクト・プレッシャー(即時奪回)」からの速攻は特に効果的だった。
 
加速したこれらの変化は数多のボール・プレーヤー型の選手たちと同じく、細谷や鵜木郁哉(水戸)といったアタッカーの価値を再定義し、彼らに続く、真家英嵩や升掛友護、あるいは彼らを後方から操る田中隼人たちの成長を後押しした重要なビジョンとなった。

持っている能力を解き放った高2時代の細谷

当時、柏Uー18監督を務めていたのは現在は大宮アルディージャでコーチを努めている山中真氏。この「幅」に関してやユース年代での細谷の成長に関してを聞くには最も適した指導者の1人。今回は「できる限り、マオの活躍はチェックしています…でも、僕で大丈夫ですかね?」と取材を快諾してくれた。
 
「新チームを立ち上げ時にトップチームから『マオをトップへ帯同したい』と打診されました。もちろん、柏レイソルアカデミーにとってや、何よりもマオのためにも素晴らしいことですからね、『よろしく頼みます』と快諾しました。でも、柏Uー18監督としての本音となると、『マオを持ってっちゃうかー?そうかー…そうだよな。持っていくよな…』って少し自問自答しましたね(笑)」
 
山中氏が施した大きな変化の1つは、レイソルアカデミー伝統の「4ー1ー4ー1」から、「4ー4ー2」へのシステム変更という挑戦だった。

若くして柏U-18を率いた山中真氏(大宮)

試合中のアレンジとしてではなく、戦術ボードのマグネットの位置もスタートポジションやパスの軌道も変わった。チーム全体として感情の乗ったプレーも増えた。今まで通りにボールを握る丁寧さも「幅」として備えながら、奪ったボールをシンプルな経路で素早く前線へ運び、局面を力強くこじ開ける攻撃は魅了的だった。

CBを引き付けるターゲットマンはこの世代の顔役であり得点源だった奥田陽琉(早稲田)が最前線に構え、右サイドを基本的な立ち位置としながら、相手SBの裏を駆け抜けていくセカンドストライカーの細谷。2人を献身的にフォローしていくアタッカーの鵜木というダイナミックな攻撃はこのチームの特長だった。また、この3人は守備意識も高く、何より「成功」に飢えていた。それらのスペックは状況を変えた。

新しい挑戦を託された01年組中心の世代

「ナベさん(渡辺毅アカデミーダイレクター)や健さんが『選手たちの成長を第一に』と現場の考えを尊重してくれました。彼らの力を活かす戦い方を模索すれば、『システム変更』という結論は自然なことでした。メディアの方々も驚いていましたけど、自分たちからしたら、大きなことではなくて。うまくいかないなら、別の方法を模索するつもりでしたしね。森海渡や山田雄士、杉井颯(長野)たちの世代に『4ー3ー3/4ー1ー4ー1』を採用した理由も全く同じ理由でしたから。『どうすれば、彼らの能力を最大限に引き出せるのか?』という部分にフォーカスをすれば、それは自然な結論でした」

戦術のディテールにも追い風が吹いた。テーマは、いわば、「見逃すな・見つけろ」ー。
 
「自分たちのやり方まずあって、そこへトップのやり方を落とし込んでいた部分もありました。特に『切り替え』の部分はマオがトップで得た感覚を出しやすかったはずです。マオにいつも要求していたのは、『自分の良さを出すことが必ずチームの力になることを忘れるな。相手に生まれる一瞬の隙もスペースも絶対に見逃すなよ』ということ。マオにボールを出す選手たちにも、『前線の2人をを見つけておくように』という話はしていましたね」

山中氏は当時着手していた「幅」の構築を回想。派手で大きな旗こそ振らないが、レイソルのシームレスな選手育成は形を変えて継続的に進んでいた。体制が変わった現在も同様のアプローチは続いている。

細谷が「すべての試合で結果を」と臨んだPL

 「他の代の2種登録選手と同じく、『トップで機会が得られない週末はUー18で』という取り決めがありましたから、基本的にはトップでのトレーニングに参加して、トップへ帯同する場合も、プレミアリーグ(PL)に出る場合もありました。『JのあとにUー18に来てもいいぞ』って。その関係上、全ての環境が敷地内で完結する『日立台』は本当に完璧でしたし、快く力を貸してくださったネルシーニョ監督の計らいにも感謝していました」

周囲の期待を理解していた細谷は、「背番号39の自分」と「背番号11の自分」と向き合い続けた。
 
「トップでの時間は大事ですが、自分はPLにも出たいと思っています。今季はPLの対戦相手からも『柏レイソルの2種登録選手の細谷だ』って見られるはずですから、毎試合結果を出したいです。自分に『全試合でゴールくらいのインパクトが必要だぞ』と言い聞かせています」

そう公言して臨んだPLでは、ユース年代では収まり切らないスケールを発揮した試合もあったし、ある大会の敗退後にはチームから1人離れて、メラメラと蜃気楼が浮かぶピッチを見つめ、肩を落とし、「自分が決めていればなって…」と唇を噛んだ大会もあった。

トップとの往来で瞬く間に逞さを増していった細谷

技術的に優れることも、チームにとって良いプレーをするのも当たり前。とにかく「チームを勝たせること」に頑なだった。
 
山中氏は細谷が最初にその名を轟かせたアルカス杯やPL・青森山田高校戦でのブレイク、トップ昇格という約2年を見届けてきた中での細谷のパーソナリティを慮った。何よりも強調していたのは細谷の振る舞い、についてだった。
 
「ポーカー・フェイスなマオなんですが、人一倍の『自分への厳しさ』を持っていて、日々の取り組みも姿勢も素晴らしかった選手の1人でした。マオに対して声を荒げたことはなかったです。いつも感心していたのは、マオはトップで準備をしていた週の週末にUー18へ来ても、普段の『細谷真大』のままで戻って来てくれて、それまでと同じように全力を出してトレーニングに取り組んでくれるんです。尖ったりもしなかった。その振る舞いはとてもありがたかったなって」

 そう話した山中氏は、「それから…」と最後に付け足しをしてくれた。

酷暑の中、当時の細谷を回想してくれた山中氏

「上の世代を見れば、海渡がいて、同じ世代には陽琉と郁哉。真家たちも次に控えていた。そんなアカデミーの環境下で重ねた取り組みから出場機会を得て、自分を表現して、結果にこだわって一歩一歩ステップアップしていった。そして、またトップでもその環境は続いていてね…今のマオがあるのは、その環境や世代を越えた競争の積み重ねがあってこそ。でも、それって簡単なことじゃないですよね」

現在の立場を超えて取材に協力してくれた山中氏の中に残っていた細谷の残像や素顔もまた興味深いものだった。
 
「今年の活躍ぶりはすごいですね…さすがに、A代表入りには驚きましたけど(笑)。でも、納得はしているんですよね。『マオならやるでしょ!』って。まだまだこんなもんじゃないでしょ」

そう笑顔で話した山中氏は最後に、「じゃあ、次は田中隼人の話をしましょうか?」と悪戯に笑ってからチームスタッフが待っているクラブハウスに消えていった。

正直で人間臭いが故の眩しさを持った01年組

2013年の晩秋ー。
 
千葉県のジュニア世代のクラブが覇を競う「CTC杯千葉県大会」が開催されたフクダ電子アリーナで優勝候補筆頭だった柏U-12を準決勝で下したのは柏レイソルTOR'82。
 
ゴールはレイソルTORの快足アタッカーによるゴールだった。その少年は翌春より柏Uー13へ加入。最初のステップアップを果たして以降止まることなく走り続けている。

あの子は今、レイソルの浮沈を担う選手の1人に

2022年の秋ー。

気づけば、サポーターや関係者たちの驚きや歓喜をよそに、精悍さを増し、左胸に日の丸を刻み戦う姿も板についてきた。

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