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『月の沙漠の曽我兄弟(7)』

 純一は現代の耐震基準などとても満たしそうにない古びたビルの前にいた。そこには慎ましく『北条出版』という看板が掲げられていた。

 小さなエレベーターが設置されていたが、純一は最上階の三階にある編集部まで、暗い階段を昇っていった。

 純一は自分の属する会社を告発するつもりでいた。

 戦国や平安の時代なら工藤の自宅に乗り込んで、刀を振りかざしてその首を打てばよかったが、現代ではそれも叶わない。できることと言えば、工藤を社会的に抹殺することしかなかった。ただし、テレビや週刊誌に内情を流したところで、こちらの思惑通りの記事を書いてくれるとは思えなかった。彼らは自分たちのスポンサーに配慮したり雑誌の売れ行きばかりを第一に考えているのだから、仮に純一が幹部の汚職を暴露したところで、視聴者や読書が喜ぶように、大袈裟な、あるは余計な背びれや尾びれを付けた情報が世に出されるのが関の山だと思われた。ならば、源田印刷の傘下にある北条出版で、会社に向けられた疑惑は全て工藤の悪事の積み重ねによるものだということを、正しく清廉に世に広めるべきだと純一は考えたのだった。

 緘口令をしかれている状況で純一がそのような行いをすれば、進退を問われることは間違いない。だが、もう悠長にしていられないし、後戻りもできなかった。

 編集部のドアを開けると、数人の編集者が机に突っ伏して原稿を校正していた。窓際の天井から『編集長』というプラスチックのプレートがぶら下がっていたのを見つけてそちらを見ると、本や雑誌がうずたかく積み上げられた机があるだけだった。

「失礼します。編集長はいらっしゃいますか?」

 それほど広くない編集部に響く声で、純一は誰にともなく叫んだ。

「はーい、いるよー」

 呑気な返事が飛んできた方を見ると、そこは先ほど視認した編集長席だった。声は高く積み上げられた書籍の向こう側から発せられたようだった。

 何が入っているかわからない段ボールがあちこちに積み重ねられ、廃棄する文書や資料を放り込んだごみ袋が雑然と床に転がっている編集室を縫うように進むと、ようやく編集長の全容が見えた。

 もみあげから顎まで無精ひげが覆っていたが、頭髪はしっかりとポマードで整髪してあり、スチールのフレームを持つ丸メガネが狡猾で理知的な印象を与えていた。ウールのベストの上には名札をつけていなかったが、ストラップのついた名札が机の上に放り投げられていたので、そこから編集長の名前が佐々木高司であることが分かった。

「おたくは、どちらさん?コピー機の営業だったら、そっちにいる誰かと話してくれないかな」

 スーツの上着を腕にかけ、白いワイシャツに青いネクタイを締めた純一の姿を一瞥した佐々木は、そういって顎をしゃくってみせた。

「わたしは、源田印刷営業部のものです。すでに御承知のことでしょうが、本日は世で騒がれている週刊誌記事のことについてご相談に参りました」

 純一がそう言うと、佐々木はさっきまでの緩んだ表情を打ち消し、眼差しに生気を漲らせた。

「源田印刷?ご相談って、まさか営業の若造が単身で口止めに来たのかい?だとしたら、来るところが的外れだね」
「ええ、口止めなどでもありませんし、社命でもありません」
「だとすると、おたく、個人の相談ってことかい?」
「はい」そういって、純一は手に持っていたブリーフケースのポケットから名刺入れを取り出し、その中から引き抜いた一枚を佐々木に手渡した。「曾我純一と申します」

 椅子の背もたれに体を預けて、佐々木は受け取った名刺を天井に張り付いている蛍光灯にかざすようにして掲げた。そして、そこに書かれた名前と目の前に屹立している純一を交互に見ながら、呟いた。

「ふぅん。曾我、ねぇ……」

『月の沙漠の曽我兄弟(8)』につづく…。

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