「装う」ことへのこだわり
人間にとって大切なことの三大要素は「衣食住」。
住む場所があって、食べるものがある、というのは生きていくうえで単純に必要なものであるとわかる。
そして、服を着て生活することも直接生き死にに関わってくることではないけれど、「人」として「人」と生活するうえでは現代社会においては絶対的に欠かせないものだ。
「着る」という意味では「必要だから」という認識で、もうほかの何でもない気はしている。
しかし「装う」ということになってくるとどうだろうか。
よそお・う〔よそほふ〕【装う/▽粧う】身なりや外観を整える。また、美しく飾る。「礼服に身を—・う」「店内を春向きに—・う」
装う、となると多分に主観が入ってくるような気がするのだ。
自分が良いと思う身なりをしたり、飾る、という部分が入ってくるという点で「着る」と「装う」は違ってくる。
では、わたしが「装う」ことへ特に思い入れがあったのはいつごろだっただろうか、と言われると20歳前後でだったとはっきり自覚している。
高校生までは制服こそが正義であった。
高校は私服で通ってよかったのだが「なんちゃって制服」にすることでわたしはセーラー服もブレザーも満喫することが出来た。
靴下はブラックにする。
セーターはワンサイズ大きいもの。
などのこだわりはあったけれど、それは「制服」とうカテゴリ内での装いだった。
さて、問題は卒業したあとである。
いつでも私服だけで生活できるとなったとき、わたしは着る服に悩んだ。
指針を決めようとあれこれ雑誌を読み漁ったこともあった。
ひらひらしたスカートをふんわりしたブラウスと合わせたいわゆる赤文字系にしてみたり、パーカーにジーパンだけのラフさを極めてみたり、レザー調のジャケットをメインにしたロックテイストだったりといろいろ試した結果、わたしがなぜか猛烈にはまったのはタイツだった。
当時、タイツに絵柄が描かれているものが流行っていたのもあるかもしれない。
それはワンポイントであったり、総柄であったりとまちまちだったが、あの頃のわたしがそれがとにかくすきで、見つけては収集していた。
ストッキングタイプのものは素肌に直接書いてるように見えることも魅力的だったし(自分で油性ペンを使って自作もした)、タイツは色によって同じ柄でも全く違う印象を与えることが面白かった。
左右で色が違うものだったり、グラデーションのように色が上下で変わっていくもの、真ん中に線があったり、真横にあったり、人形に見えるようなつぎはぎが描かれたもの……気軽にその日の気分を表現出来ることが楽しくて毎日毎日履いていた。
「足は二本しかないでしょ」と母に呆れられながら、集めに集めたタイツやストッキングは全部で50本以上はあったと思う。
それが、一体どのタイミングで「もういいや」となったのかは定かではない。
結局、履かずに眺めただけで終わってしまったものも何足もあると思う。
そして、いまのわたしはタイツは2~3足しかもっていないし、そのどれもが無地だ。
「装う」ことに執着はしたことは、あれからないし、これから先も来るのかはわからない。
でもあれは「楽しかったな」と思える、確かなブームだった。
ブランドもののコレクションや宝石など美しく着飾ることへの興味は基本的にあまり持ち合わせていないわたしだが、それでも身に付けるものにあれだけこだわった時期があるのは、とても良かったと自負している。
「装う」ことは自己満足でしかない感覚であるとは思う。
だからきっとそれは、他のだれにもわからない何かであっても良いのだ。
自分がすきだと思える何かを身につけることは、自分をちょっぴり強くさせてくれるからだ。
そんなものにまた出会えたらよいなあと今では少し思えている。
もっともっと新しい世界を知るために本を買いたいなあと思ってます。