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音大に入れなかった女

音大を目指していた。
音大に入りたかった。

″音大に入ってどうなりたいの?″

そんなものはわからない。どうなれるのかもわからない。今の実力だって、4年過ごした後の実力だって、私にはわからない。

それでも音楽の勉強をしていると楽しかった。
歌を気持ちよく歌えると、生きていて嬉しいと思った。
だから、もっともっと知りたかった。
それだけだった。

小学1年生の時にピアノを習い始めて、たまたま同じ先生に習い始めた声楽。

中学生の頃は、音大に入る可能性を上げるために必死で勉強した。

朝、起きてからの1時間は理系の勉強をした。
それから学校に行って、通勤時間の1時間半は大好きなドビュッシーを聴きながら暗記科目をやった。学校から帰ってきたら、真っ先にピアノを弾いた。夜ご飯を食べて、お風呂に入ったら英語の音読をした。聴音のCDと楽典の本を買って、一人で始めた。寝る前には必ず、腹筋とストレッチを合わせて1時間くらいした。イタリア語も勉強した方が良いのかなと思って、初心者向けのラジオ番組を購読した。

それくらい本気だった。

もちろん、合間合間で楽しみもあった。その時一番仲が良かった子がオタクだったから、その子と帰る日はたくさんお喋りをしたし、学校の休み時間は貸してもらった漫画を読んでた。

どの時間も私を構成する大切な時間だった。

でも、私は自分の才能と実力に自信が無かった。
小学生の時に始めたピアノは、元々習っていた声楽科卒業の先生からピアノ科卒業の女の先生に代わっていた。どれだけ毎日、家の重い鍵盤(調律がされていなかった)のピアノで練習しても、
「練習してきてないでしょ」
と言われ、泣きながら帰ることも少なくなかった。

元々習っていた歌の先生には、
「今から音楽の道に絞ることは無いよ。いつでも戻ってこられるのだから、まずは自分の地盤を固めることを優先させなさい」
と言われていた。

歌の先生は、習い始めた小学生の時点で60歳とかだったから、私が中学生の頃は70歳前後だった。
戦争の中を生き抜いて、本当は国文学を勉強したかったけれど声楽科にしか受からなくて、働きながら夜間で音大に通った先生だった。同じ大学のピアノ科の奥様と結婚して、ウィーンにいた時もあったらしい。

とても説得力があった。
そしてその言葉は、説得力がある分、
「私は歌で生きていける程の才能は無いのだから、今のうちに他で生きる術を見つけておかなければ」
という″自分の位置を決める言葉″になった。

当時は2000〜2010年の間で、ちょうど不況の真っ只中。就職氷河期で、夢を目指すなんてことが許される状況ではなかった。
私にはその間に歳の離れた妹も生まれ、予定してなかった中学受験を強行突破した我が家には経済的な余裕も無かった。

歌の先生の言葉は、やはり説得力しか無かった。

音楽の勉強がしたい。いろんなことを知りたい。歌が上手くなりたい。
でも、何も知らない親にはやっぱり相談出来なかった。お母さんは、普段使いの化粧水も限界まで安いものに変えていた。
才能が無いと言われている歌の先生にも相談出来なかったし、ピアノの先生にももちろん相談は出来なかった。

小学生の頃はグループで受けていた歌のレッスンも、今や誰も居なくて個人レッスンになっていたから自分がどの程度ダメなのかもわからなかった。

自分の中でただ悶々と、現実と理想が乖離していった。

一度だけ、歌の先生から音高の資料を渡されたことがあったけど、やっぱり世界を狭めるのはお勧めしないとのことで、これは言い訳かもしれないけど、中高一貫の進学校に通っていて成績優秀だった私は、″世界を広げる″ことにした。

そのまま流されるままに高等部へ進んだ私は、いつの間にか勉強をしなくなっていた。その代わり、二重になりたいとか顎を細くしたいとかそういうことを考えるようになっていた。

中学3年生で進路選択をする時、よくお世話になっていた担任の先生には
「○○さんは理系で物理を取りなさい。きっと向いていますよ」
と言われてなんとなく理系を選んでいた。

その先生は私が中学1年生の時から私たちの学年を見ている数学の先生だった。
先生はビートルズが大好きで、常にマッシュルームカットでブーツカットのデニムを履いている、ひょろっとした40代くらいの男の先生だった。私は丁度成績が落ち始めていた頃だったけど、何故か馬があってよくクラスの人間関係について訊かれたりしていた。
だから先生のことは信頼していたし、「才能無いよ」と言われたような音楽と、「向いていますよ」と言われた理系では理系を選ぶに決まっている。

そして、高校にはたまたま「音楽専攻」というコースがあった。知ってはいたけど、3歳の頃からやってるわけでもないこんな平凡な私が、そんな大それたコースに行くとは全く考えていなかった。
ただ、「あの子そっちのコースらしいよ」と言われている子達の歌を授業聞くことは出来た。

へえ。

そう思った。

土俵に立つことも出来ないくせに、そんな風に思っていた。

親に本音を話した。妹がいるから無理だよと言われた。家族みんなに迷惑をかける、それくらいの覚悟も持てないのに目指す場所じゃないと言われた。

たしかに、家族を不幸にしてまで、不自由にしてまで行きたい場所などあるのかと言われたら、私には無かった。もし行ったとしたら、罪悪感で押し潰されてしまいそうだ。

私は家族を不幸にしたくないし、音楽の勉強もしたい。
今ならわかるよ、専門学校へ行くとか、なんだってやりようはあったんだよ。

でも、当時の私は「必ず4年制の大学を4年で卒業すること」と言われていた。
もちろん、それなりの覚悟があれば、そんな言いつけ簡単に破ることが出来たんだと思う。私にはそんな自信がなかった。いつだって臆病で、勝負の土俵に立てない。ずっと見ているだけ。

それでも、親の希望と自分の希望をなんとか組み合わせられないかと思って出した自分なりの答えが、「文系に行く」だった。

文系に行って何がしたいとかは無かった。
ただ時間が欲しかった。好きなことを出来る時間が。好きなことを諦める時間が。好きなことを突き詰めて、どこかできっと挫折することになるんだろう。歌でも、歌以外でも。
どこかで満足する時が来るんだろう。世界は広い。

大学には、ほとんど落ちた。勉強しなかったから。勉強する理由がわからなくなったから。ずっとポケモンをやっていた。
受験本番までは、勉強をしていないのだから、他に何か出来るようになっておかないと時間が勿体無いなどというわけのわからない真面目さを発揮し、ポケモンの絵をたくさん描いて絵の練習をしていた。
センター試験前日にはB'zのライブに行った。本当に歌が上手い。好きだ。パワフルでかっこよくて、どっしりとした基礎とダイナミックさが素晴らしい。

そんなこんなで滑り止めの1校だけ受かり、母親は死ぬほど喜んで、そこに行くことになった。特に何も期待していなかったけど、B'zが好きだったし歌いたかったから、バンドサークルに入ろうかなと考えていた。
バンドサークルがたくさんあるなんてことは知らなかった。

他の大学に落ちたことは、友達にはなかなか言えなかった。恥ずかしかったよ、勉強してなかったのは自分なのに。
それでも、罪悪感とかは一切無かった。
全部落ちたら、もう一回「音大に行きたい」と言おうかなとも考えていた。
1校受かっちゃったからその機会は来なかったけど。

大学に入ってからは色々あって、
4年で卒業して新卒でみずほグループに入社し、
2年で辞めて今はアパレルで働いている。


私のコンプレックス解消の旅は、もう少し続く。

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