歳を取るということ
(今なら死ねる)
そう思うことが時々ある。
alwaysでは無いけど。sometimesくらいかな。
死ねると思う時は必ず決まって家のよく切れる包丁を胸に突き刺している自分の姿をイメージする。多分一回やったことがあるからだと思う。勇気が出なくて血が滲んだくらいでやめた。ちょっと痛かったけどそうでもなかった。ただこれ以上やったら私の綺麗な肌に跡がつくかもしれないことが嫌だった。
正直に言えば、普通に怖かった。
昔からこうなることがあって、喉の奥がつっかえたような感じがして、頭がぼーっとしてくる。もう苦しいのは嫌、こんなとが頻繁に起こるならいっそ…と思う。
私の人生で楽しいことはなんだっただろうか?
たくさんある気もするし、そうでもない気もする。でも割と楽天的な方だから、少しの幸せな出来事で大抵半年は生きていける。
のばしてのばして、ちょびっとずつ味わう。
あんまり濃いとむせちゃうから、少しずつで良い。
嬉しかった思い出が悲しい思い出に上書きされてしまうより、嬉しかった思い出を何回も何回も思い出す方が良い。
人の心が美しいことを色んな作品で確かめながら、希望を貰って、毎日生きる。
どうすれば普通の人みたいに、周りの人と楽しいことを話してそれがエネルギーになって明日起きる意味になるのかな。
あんまりよくわからない。
「起きる理由が無い」とここ数年思っていたけれど、本当に特に無い。
なんとなく所属してしまった集団の決まりに従っている意思の無い塊なのだ。
たいへんだ。
大変なことだ。
あーあ。
こんな風に人生の大半が流れていくなんて、この地球に生きている大半の人は可哀想だな。
意思のあるものは、意思の無いものを利用して良い思いをし続けるのかな
「利用」と「救い」と
でも意思なんて最初から無いのかもしれない。
…などと24歳の私は思っていたらしい。
当時のブログを読みました。
若いな。
若いし、弱いし、臆病で勇気が無くてその代わり図々しさも無い。
人からの評価を気にしていて、不安で仕方ない感じだ。
歳を取ったと思う。
思うけれど、この24歳のメンタルのまま今も生きていたら相当やばい奴になっていたな、とも思う。
これは腹を括る前の私だ。
まだ自分の未知の可能性に期待していて、それを待っているだけの私。
パワハラだとか疲れたとか仕事をしないと生きていけないからとか言って、現状を変えようとしない私。
たまにこのまま30とか40とか50とか60とかになってる人、いるよね。
今の私と根本的に違うところは、一言で言えば
「何もしないと何も変わらない」ことを見てみぬフリしているところ。
思ったり考えたり吐き出したり当たってみたり我慢したり食べたりしたって、″それ″を適切なプロセスで処理しないことには何も始まらない、
ことを知らないところ。
何かやりたいことがあるなら生きてるうちにやらないと。
小学1年生から続けている声楽が、24になっても何の結果も出ていないことを正面から見つめないと。
絵を描きたいとか音楽やりたいとか言っても、何も続いてないことを直視しないと。
具体的にスケジュールを立てて、どこまでは頑張るけどそれからは諦めるとか、他の方法を試すとか、やれること全部やってどうにかしろよ。
結局、文句言いながら挑戦しない自分は守られてる立場に居ることに満足してるんだろ?
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