見出し画像

妹に伝えた事~私なりに出来る事~



自分のニュートラルな気持ちに、ブレが無く、今なら大丈夫と思えたタイミングで、妹に連絡をしました。


数年前に、私は妹から、宗教の話しと、
「お姉ちゃんの事を気に掛けている、想っている、助けたい。」
とメールで言われた事がありました。その時、私は仕事家事育児に追われて、忙しく生き過ぎていて、心は苦しく余裕が無い時でした。妹の言葉に、私は、怒りを感じました。私の気持ちなんて何もわかっていないくせに、そんな事を言わないでと思いました。
「私の事を想ってくれているのは嬉しいけど、想っているのなら放っておいてほしい。」
と返しました。今、考えると、酷い事を言ったと思います。その時の私は、自分に向き合う余裕も無く、妹に発する言葉に愛も何も無い状態でした。
その時妹は、「わかったよ。」とだけ言いました。


今回の私は、その時の妹の気持ちがわかっていました。私も同じ気持ちだったと、本心に気づいたおかげで、妹が数年前、どんな気持ちで私にそう言ってくれたのかがわかっていました。
私は、宗教2世問題がきっかけになって、自分の過去や感情との向き合いをした事、それにより気づいた事と、今の気持ちを伝えました。
「私は、○○ちゃん(妹)が私の事を想っていてくれた事に気づいたよ。そしてようやく、私も自分の気持ちに気づいた。両親・○○ちゃんと、私は、それぞれ信じる物事が違い、立場が正反対だけど、お互いを想う気持ち、助けたいとかいう気持ちは同じなんだよね。だからすごく苦しかったり、大変なんだよね。私も皆を大事に想っているから、助けたいと思ったりするんだよね。
前に○○ちゃんが、気に掛けていると言ってくれた時、放っておいてと言った事、本当にごめんね。」(抜粋)   と謝りました。


妹は、もしも私が聞きたいなら、なぜ自分が宗教教義を信じているか、話すと言いました。
私はそれは今は聞こうとは思っていないと話し、何を正しいと思うか、正しくないと思うかで、少し議論になりかけました。話しは平行線状態になるので、深く話す事は辞めました。つい感情的に押し付ける話しになりかけました。
私は1番伝えたかった事を言いました。
「もしも、万が一にも、宗教を辞めたくなったら、その時は言ってね。」と。
妹は、
「お互い信じるものが異なってるけど、私達もお姉ちゃん達のことを想ってるし、お姉ちゃんもそうなんだね。ありがとね。前に言われたことちょっと気にしてたから、聞けてよかったよ。身体に気をつけて過ごしてね。」と言いました。
私は、
「ありがとうね。想っててくれて。あの言葉のお掛けで気づけたよ。ありがとう。お互いに、信じるものは違うけれども、それぞれが信じるものを心から信じて、お互いに、身体に気をつけて、過ごそうね。返信ありがとう。ではまたね。」
と返しました。


妹の心に、届くかわからないけど、私なりに、私が伝えられるだけの事は伝えた、と思いました。芽が出るかわからないけど、妹の心に、私が蒔ける種は蒔いた、と思いました。万が一にも、いつか(宗教を辞めたいから支援して等)依頼があれば、その時に私は私に出来る事をしよう...と思いました。

そしてもう、これで、後は結果は求めない。お互いに、信じるものを信じて生きていけばいい、と思いました。


その後、一気に視界が開けて、自信に満ちて、新しい1歩を力強く...とは、私はなってはいません。
私は幼少期から親の支配のもとにあって、親に影響を受けて育ってきました。その環境で、長年身に着けた特性は、気づいて、その思い込みを修正して、その後実際に回復したり変化していくので、自分の行動に変化が現れるまでは、どうしてもそれ相応の時間が掛かる事だと自覚しています。
AC(アダルトチルドレン)の特性は、意識しながら、頑張り過ぎず、自分を大事にしながら、少しずつ、丁寧に、変化していく。もしかして、私自身は、ずっと一生共に生きる特性なのかもとも思います。私は生育環境の影響でACになりました。もうACは、私の素敵な個性に思います。そういう自分を愛しく思い、全肯定的に捉えていこうと思っている今です。



最近は、天体の動きの影響をとても受けている...とも感じます。
日々の日常を送る中で、いろんな感情で揺れを感じます。迷いや自信の無さや、焦り、不安、戸惑い、逆に癒しや安らぎ、そんないろいろな感情を感じている事を、気づいて素直に認めて受容しながら、今は心の螺旋階段をゆっくりと、時々上を見上げながら上がって行っているような感覚もあります。
どんな感情も、全受容、全肯定する...と思い、ネガティブな感情も、それは今の自分をよりよく知るために必要なもの、と思っています。


気持ちの揺れ幅が大きく、私1人、両親や妹、肉親から離れた生き方を選んで、果たして、幸せな事だったのだろうか...と、私が17歳のあの日気づいた事は、果たして良い事だったのだろうか...と、そんな気持ちまで、浮かび、感じてしまいました。
もちろん、私自身が気づいて、選んで生きてきた今までの人生に、後悔はしていません。様々に大変だったけど、出逢うべく人に出逢い、支えられて、必要な学びを体験して、ほかには無い人生だったと本当に思っています。
でも、心の筋力がそんなに強くない日は、気持ちが揺れて揺られてしまう事もあるな、と思います。
妹と連絡を取り、やり取りが出来た事はよかったのですが、考え方の違い、生き方の違い、を再び直視し実感する事になりました。
私の気持ちの軸はブレなくても、妹との変わらない溝に、私の想いではどうにもならない事に、やはり寂しく残念な気持ちは感じてしまいます。でも、仕方のない事です。いろいろな形の関わり方があります。
どうにもならないですが、もう明るい気持ちで受け入れて、これから、その現実をしっかりわかって、生きていこうと思いました。
立場が正反対で、気持ちは同じなのですから、私がそうであるように、妹の気持ちも生き方も、全肯定しなければ...と思います。そして、何の結果も求めません。
エゴは、気づいた後は、愛になったようです。少し前に感じた、ため息の伴う諦めの思いよりは、今、前向きな気持ちで居られています。
私のこの揺れる気持ちも、全受容、全肯定です。
そうやって、私は、日々いろんな感情を感じながら、学んで小さく変化して、少しずつ時を過ごしていると思います。螺旋階段をゆっくり、1段ずつ、上がっています。


妹とやり取りをした後日は、新しい学びの1歩は、いつか妹のためになるかもしれない...と思いました。
でも、少しして、あ、まずは妹のためと思わずに、自分のための学びにしなければ、と思いました。
ずっと、(誰かに承認してもらいたいという気持ちから)他の誰かのためばかりに生きてきたので、つい、誰かのために、という思考が癖になっているようです。そして、その思考が私は安心してしまうようです。慣れているからつい、そうなりますね。気づいて、修正です。
自分を愛する、という事は学んで実践している今です。
自分のために生きるとは?...どういう事か...。どうやったら...?と思います。
私がまずは本当に自分を大切にして、自分で自分を認めて、自分のために生きて、そう出来て初めて、誰かのために生きる事が出来るはずだと思いました。
今の日常を暮らしながら、考え過ぎずに、本当の意味で、自分のために生きる、という事を、きちんとわかっていきたいと思いました。





お読み頂き、ありがとうございました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?