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父の誕生日に寄せて

こんばんわ、shunです。

 今日は、完全に思った事を徒然なるままに書き綴ります。今時点でこの文章のゴールも見えていません(笑)ただ、今日書いておかなきゃという何となくの感覚から今タイピングをしている位なので、本当にお暇じゃない限りはこの辺でストップで大丈夫です。

★なぜ父について書こうと思ったか
 誕生日だったので、おめでとうとLINEをしたら「もう66歳か、そうだよね、俊が今年38歳だもんな」と少し寂しがっているようにも取れる返信が届きました。残念だけれどそう遠くない、少なくても数十年以内には来る別れへ向けて、父親について一度自分の中で言語化して胸の中にしまっておきたいなと、その返事を見て思ったからです。

★生い立ちについて
 両親、祖父母、妹の6人家族でした。
小学生の時に祖父が亡くなりましたが、父は地元の信用組合、母親は公務員という一般的な、ただ五体満足で日々お腹いっぱいのご飯を食べる事ができるという点では、とても恵まれた家庭で育ててもらいました。物心付いた頃から高校生まで自分は毎日野球の練習をしていて家族旅行の思い出はありませんが、毎週末の試合には両親揃って応援に来てくれていたので、そういう意味では上京するまでの18年間、家族と過ごした時間、特に両親が自分を見ていた時間は意外と長かったのかもしれません。

★父について
 絵に描いたような温厚で真面目な性格の父です。決して無口ではないのですが、冗談を言ったりする感じではありません。例えば車を買い換えるにしても、各社のカタログを隅から隅まで暗記するほど覚えて比較をしてから決めるような慎重なタイプです。周りの人の話を総合すると仕事はきっちり仕上げるようで周囲からの信頼も厚いようですが、息子の自分からみると、仕事好きないわゆる昭和のモーレツ時代を生き抜いてきた典型的なサラリーマン。お酒が好きで大人になってからは帰省する度に自分が東京で珍しい日本酒やウイスキーを買って帰って語り合う事が楽しみになっていました。
 そんな父について忘れられないエピソードが2つあります。

★父の涙
 大学進学で上京した自分に母親から生まれて初めての手紙が届きました。
おそらく母親が寂しくて書きたくなったのだと思いますが、その中に今の自分の価値観に繋がる事が書いてありました。そのまま記載します。
「お母さんは、お父さんの涙を二回見た事があります。一度目はおじいちゃん(父の実父)が亡くなった日、二度目は俊の野球が終わった日」自分の野球が終わった日というのは甲子園を目指した県予選大会で負けてしまった日です。その時に父は「俊が野球をしている姿を忘れないように胸に焼き付けるんだ」と言いながら、応援してくれていたそうです。

 高校球児だった自分は、とにかく甲子園出場を信じて疑わなかったので、悔しいという気持ちしかなく、自分が甲子園という夢を追いかけて必死になっている姿が父の喜びになっていた事、その夢が絶たれ泣き叫んでいる自分を見ているのが辛くて父が泣いていた事を全く知りませんでした。そんなでしたので、母からの手紙を見た時には、その時の情景が頭に浮かんで一人部屋で号泣してしまいました。今でも手紙は取ってあり今回改めて見返しましたが、何度見てもグッとくるものがあります。

 そしてそれ以上に驚いた事は、両親が結婚してからの約20年間で、父は母の前で2度しか泣いていない、しかも一度目の祖父の死の時も、深夜に安置されている祖父の枕元で一人泣いている姿を、たまたま見かけてしまったとの事だったので、人前で泣いたのは自分の高校野球人生が終わったその日だけだったという事実がです。日々、自分の感情に素直に生きようとしていますが、人前で泣いた事は高校生以降一度もありません。「男は泣いちゃいけない」とかそんなポリシーがあるわけではないのですが、一度もないのです。これが良いのか悪いのかは分かりませんが、今だに父の背中を見て育っているようです。

★東日本大震災
 2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。
自分の実家は福島県いわき市。大きな被害を受けた地域です。海岸近くにあった父の職場には足元くらいまでの津波が押し寄せ、社員の中には残念ながら犠牲になられた方もいたそうです。そんな最中すぐに原発の爆発事故が起きます。東京にいた自分はとにかく避難するよう説得しそう決まりました。

 ただし高速道路は通行止め。ガソリンを入れるのにも長蛇の列、結局福島から東京まで普段であれば3時間もかからないところ、下道で半日かけての到着でした。高齢の祖母、犬二匹を連れての大移動はそれだけで大変だったと思います。そして避難先は母と祖母と犬は父の弟の家に、妹は私の家にと決まったところで、父は仮眠を取ってすぐに戻ると言い出しました。少し落ち着くまではと思っていた自分は慌てました。平常時であれば仕事があるからねと冷静に判断できましたが、当時は枝野官房長官が「直ちに影響があるわけではない」と全く信じる事が出来ない発表を繰り返す最中。せめてもう少し落ち着くまで留まれないのかと半泣きになりながら説得をしましたが、「仕事がある」の一点張りで、2~3時間の仮眠の後、また半日かけていわきに帰っていきました。

 私には、尊敬する人はいません。
全ての人格を全て尊敬できる完璧な人など存在しないと思っており、良いところも悪いところも含めて人間だからです。ただ、尊敬に近い人がいるとすれば父だと答えます。自分と妹を何より大切に見守り育ててくれたこと、人前では笑って、悲しい時は影で耐え忍んでいたところ、自分が目指したい姿と重なります。

 震災の時、一人でいわきに帰りながら父は泣いていたんじゃないかなと勝手に想像しているんです。だって、怖くないわけはなく、もしかすると二度と家族と会えなくなるかもしれない、優先順位で言えば家族が一番だったはず、それでも社会の一員としての務めを果たすべく仕事に戻らざるを得なかった父の心境を思うと胸が苦しくなりますし、本当は家族と一緒にいたかったはずなのに、務めを果たすためいわきに戻った父を誇りに思っています。


 最近では、父も母も還暦を過ぎ、目に見えて体力が落ち始めてきました。
両親は好きにやれ!と言ってくれていますが、かつて自分達を守ってくれたように、できる限りの親孝行を妹と一緒にしていきたいと思っています。

 本当に徒然なるままに書いてしまいました。。特段自分のバイオリズムも正常ではあるのですが、何やら浪花節になってしまいました。

 祖母はまだ健在で、妹には子供が生まれ、今では4世代の家族となりました。この幸せがいつまでも続く事を願いながら、自分にできる事をしていこうと思います。

 ここまでもし読んで下さった方がいたとすれば、相当にお暇か(冗談ですw)、私のファン(これも冗談w)かと思いますが、本当にありがとうございました。明日からもまた仕事がんばりましょう!

※写真は、復興した福島県いわき市小名浜の海岸公園です。

それではまた!


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