「助けて」と言える能力

NHK『プロフェッショナル仕事の流儀』保育士・野島千恵子の回を見た。この回で取り上げられている野島は、障害のある子どもや年齢の異なる子ども一緒に育てる「インクルーシブ保育」の実践をしている保育士として紹介されていた。「インクルーシブ保育」をするきっかけは、障害をもった子どもを、他の子どもたちが特別視していることに危機感をもち、それを変えていかねばという思いからということだった。「お互いに支えう」社会の実践は、やはり教育から得られるものだということを、ひしひしと感じられる放送だった。

その中で、特に目から鱗だったエピソードがあった。それは、何でも率先してやってくれる責任感の強いリーダー気質の子どもに、「助けて」と周りに言える練習をさせるというものだ。なるほど「お互いに支え合う」といったとき、そこには必ず偏りがでる。「支え続ける者」が必ずや存在し、その人の善意と責任感に周りがのしかかり、果てはその人が潰れてしまうことがあるだろう。だから、「支え合う」には、「支える」者が潰れないようにする配慮も必要なのだ。そうでなくては、「お互いに支え合う」社会は成り立たない。そのことも教育として実践している野島の姿勢に深く感銘した。

そんなことを考えているとき、この記事を読んで、心が震えた。

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これは、だれにとっても他人事ではない事件ではないだろうか。自己・家族に責任を押し付け、不寛容が進む社会において、「助けて」と言える力は、他人を当たり前のように助ける力と共に必要な能力なのだと感じた。

自分だったら言えるだろうか、「助けて」と言えるだろうか。「助けて」と言えないのだとしたら、それは何が私を阻んでいるのだろうか。

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