「産む」をめぐる女性の身体論について

結婚してからというか、子供をうんでからというか、育ててからというか、社会と私の間にズレがあって、なんともいえぬ違和感をずっと抱えてきたように思う。それがなんであるのか上手く表現できずにいた。そして、それと並行して持ち続けている疑問が、何で私たちは「産む」ということに、こんなにも捕らわれなければいけないんだろうということである。入り口はここである。

Tokyo Art Research Labの「思考と技術と対話の学校」というプログラム内に、熊谷晋一郎と伊藤亜紗が、それぞれゲストとして招かれている回を傍聴した。二人は、別のアプローチの仕方で「障害者」について研究していた。熊谷は当事者が抱える固有の経験を研究素材にするという「当事者研究」という形で、伊藤は「身体論」という形で。伊藤は身体論を専攻していたところ、設定されている身体が偏っていると感じ、身体をもっと細分化して考えるために、自分と一番身体条件が異なる対象として「障害者」を選んだという。二人の「障害者」の捉え方は私にとって驚きであると同時に、「女性」についても同じようなアプローチの仕方で考えることができるのではないかと感じた。

まず、伊藤も言うように、出産の身体論というものがない。「死」についての思想はこんなにもあるのに、「産む」についてはないというのは、やはりジェンダーバイアスがかかっているということか。

そんなフックがあり、女性の「産む」をめぐる身体論について、今後考えていくことにしたいと思っている。

調べている上で、ここ最近私がひっかかった言葉などをここで共有。

まず、女性は、月経・妊娠・出産・閉経など経験する「変容する身体」をもっているということを考えなければいけない。ここで、熊谷があげていた「可変性」というキーワードを紹介したい。「人間の身体や社会はどこまで変化可能か」という問いが熊谷の考えの根幹にあるという。「ここまでは変えられる」「ここからはどんなに頑張っても変えられない」という「可変性」と「不変性」の境界があるとき、その境界線は「責任」と密接に関係しているというのだ。つまり、「変えられるのに変えなかった、その場合責任はあなたにあります」「しかし、本当に変えられなければ仕方がない」ということである。「可変と不変」の線引きをするとき、それは「引責と免責」の問題と密接に関係しているのだ。

これは「産む性」というまなざしを社会から向けられている女性にもいえるのではないだろうか。現在の社会では、女性が妊娠・出産が可能という身体をもっている以上、妊娠しないということはその責任はあなたにありますと言われているのだ。ここでまた熊谷の言葉をあげたいのだが、障害を考えるとき、「医学モデル」と「社会モデル」というキーワードがあるという。「医学モデル」とは身体の中に障害が宿っているという考え方であり、「社会モデル」とは身体の外に障害が宿っているという考え方である。「医学モデル」は個人の可変性を過大評価し、社会はたやすく変化することができないと過小評価するというマインドセットだという。まさしく、「産む」をめぐる女性をとりまく環境は「医学モデル」なのではないだろうか。個人の可変性を過大評価し、責任を負わせているのだ。ということは、逆の考えをすれば、社会の可変性が見直されれば、個人は免責されるということではないか。しかし、ここで新たな問題が生じる。つまり「産む」をめぐる問題を「社会モデル」で考えるとき、それは「卵子売買」や「代理出産」などという問いに繋がってくるのだ。

貞 岡 美 伸が「代理出産の自己決定に潜むジェンダーバイアス」という論文で、『フェミニズム入門』などの著者である大越愛子の言葉を引用しているものがあったので、共有。

妊娠・出産を血縁幻想から解放するとともに、自由な労働とするために大越愛子は、妊娠する身体において「自 らに自由を侵害する異物」として現象してくるものを、あたかも「自由な世界公民」の到来の如く捉え直すこと、 父的存在が妊娠・出産する身体や出産した子どもを私物化するのではなく「自由な世界公民」として捉えること、 そして血縁的な親子関係に執着しないことを提唱する。

また妊娠・出産という労働の実践的課題について大越は、「産む自由」の賛美において曖昧にされてきたのが、妊 娠 ・ 出産が女性自らの自由の喪失を選択する自由であるという。再生産労働の妊娠 ・ 出産は自由が奪われた状況下 で行われるレイバー(奴隷的労働)であることは否めず、出産を脱レイバー化するには、産むことを自己決定や自 己責任とする自由権ではなく、社会権として確立すべきだと主張する 。そして妊娠・出産を私的労働にとどめる のではなく、世界公民を創造する自由意思に基づいた公的労働として社会が受け入れる必要を述べる。

以上、引用。

最近、角田光代『坂の上の家』、吉田修一『橋をかける』を読んだ。どちらもそれぞれの著者の最新刊だ。これらを読んでも、女性の「産む」を取り巻く一連の問題は、女性だけの問題ではなく、現在社会が抱える大きな問題と捉えることができると思った。「産む」だけでなく、「育てる」ということにも、「社会モデル」が考えらえる段階になっていると思う。


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