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感知、しよっ!

あなたが最後に海をながめたのはいつのことだろう?
朝の空気を味わったのは?
赤ん坊の髪の毛にさわったのは?
はだしで草のうえを歩いたのは?
青い空をながめたのは?
わたしたちはほんとうに人生にふれ、味わい、堪能しているのだろうか?
非凡なものを、とりわけ平凡のなかにある非凡なものを、感知しているだろうか?

エリザベス・キューブラー・ロス
デーヴィド・ケスラー


赤ん坊の髪の毛とはだしで草の上の件は、わたしのここ数十年の生活からはないことなのでパスさせてもらう。

海・・・今月、見た。
朝の空気・・・今朝、吸った。。。はずだ。
青い空・・・今朝、見た。

眺めていないし、味わってもいない。

海は通りすがりで、見ただけ。
朝の空気は、朝外に出た際に嫌でも吸ってる。
青い空は、今朝晴れていたので、写真撮りながら見た。

まったく感慨すら、感動すらない。

で、眺めるとか、味わう、という表現を使っているが、こういう事が言いたいのではと思うところ、わたしなりに、海を題材に考えてみた。
そして思い出してみた。

海を見て、その瞬間、感動や感慨すらも通り越して、ただ時間も空間も超越して、海と一対一になるような感覚かな。

美しいとか、悲しいとか、淋しいとか、心あらわれると、そんな言葉にできる感情すらもなく、海という認識すらも取り払われて海と共にある感じかな。

言葉で言い表せないことを言い表そうとするので無理があるな。

でもそんな感じ、としか言えない、わたしの語彙力では😅

それで、海というもんを思い浮かべて、そんな時ってあったかな?と記憶をたどった。
即効で、ない!、と答えが出た。
で、コーヒーを買いに出て、暑いなぁ〜、と思いながら歩いていて、そ〜いえば、海と聞いて、この季節のため、青い空・灼熱の太陽・青い海、湘南のビーチ系を思い浮かべていたけど、海はそれだけじゃなかった、ってことに気づいた。

あった、むかし何度も。

それを望んで海に行ってたじゃん。

冬の日本海の夕暮れ時の海。

漆黒と思えるような真っ赤な夕焼け。
日没間際の薄明の海。

それを眺めていた。

感情はなにもないに等しかった。

綺麗でも、悲しげでも、淋しげでも、そんなものもなく、あるのはただそこにいることが落ち着くというだけ。
感傷も感動もない。
ぼ〜。
てのが一番ニュアンス的にはあっているのかも。

で、車に乗って、エンジンかけて、走り出したら、もうなんもない、海のこと。

その延長で思い出した。

学生時代、京都の寂光院に行くのが好きだった。

一人でいって、やっぱ、庭を眺めるでもなく、建物を眺めるでもなく、縁側に座って、ぼ〜としているのが好きだった。

で、車に乗って、エンジンかけて、走り出したら、もうなんもない、寂光院のこと。

あんな感じの味わいを、生活の平凡の中に感じたことはないな、おそらく。

この間までNHKで「半径5メートル」というドラマをやっていた。

自分の半径5メートルにある当たり前に非凡を見つける目が大事だ、というようなことをテーマの根底においたドラマだった。

見ていて、なんか心地が良いドラマだった。

でも、オレには見えないな、とも感じていた。

そんなだから、平凡の中に非凡は無理だ。

小津安二郎監督の「東京物語」を始めて観た時、最初の5分で、「こんなの観てらんねぇ」とギブアップした。
そのあと、役者を志そうと密かに思い出してきた頃、小津がわからないで役者ってカッコ悪い、そんなよくわからん縛りが自分の中に湧き、久々に挑戦した。
ギブアップせずに最後まで観たが、「これの何が面白いのかよう分からん。これのどこが凄いのかまったく分からん」、ってのが答えだった。

自分のいままでの人生の中で、一番、感受性が研ぎ澄まされていたろう時期にそんなんだから、ま、そんな奴にいまさら平凡の中の非凡なんて、どうにかしても分かろうはずもない。

ただ、少し期待しているのは老化という現象だ。

こいつは、何かというと、当たり前であたことがじつは当たり前でなかった、ってことを突きつけてくれる。

道渡ろうとして横断歩道の10メートル手前で歩行者信号が点滅しだしたら、軽く走りながら赤になる前に渡り切る。
これが、当たり前だった時期もあった。
で、今は、横断歩道を渡ろうとして、歩行者信号についているあとどれくらいで変わるかを知らせるランプを見て、下から2番目くらいまでしか点灯していなかったら渡るのを諦めるようになった。

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季節の変わり目、暑いんだか寒いんだか丁度いいんだか、体感では分からなくなってきている。
温度計と湿度計のチェックをしないと、この季節、下手したら熱中症になるかもしれないな、とここ数年思い出し始めた。

順調だ、

みごとに進んできている。

これがもう少し進めば、もしかしたら、半径5メートルが見えるようになれるかもしれない。

最期の最期には、上手く行けば、「平凡なんてなかった。一切が非凡だった」なんて言えたりして😆

と、憧れてはいる。

でも、目も耳も、ありとあらゆる感覚は、平凡であることで穏やかでありたい、という思いをあざ笑うかのように、半径6メートルどころか、100メートルも500メートルも、それ以上に離れた、「ありえな〜い」の方に持っていかれる。

でも、釈迦は説いているんだよ、2600年も前に。

いっちゃんありえないのは、「いま・ここ・わたし」、つまりオマエだよ。

って。

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