カズオイシグロの「文学白熱教室」を久しぶりに見直して、考えたこと

 数年前、カズオイシグロが「ひとはなぜ小説を書くのか。なぜ小説を読むのか」をテーマに聴衆と語るNHKの「文学白熱教室」でこんなことを言っていた。

《私は作家として、小説全体を支配するような大きなメタファー(隠喩)に惹かれる。私はよく小さなアイディアをノートに書きこみ、どれが力強いか見比べる。それがアイディアが力強いかどうか決める、私なりの方法なのだ。そして自問する。これは本当に、何か重要なことの力強い比喩になりえるのかどうか。この物語は、途轍もなく大きな比喩になるのだろうかと》

 本を編集してきた人間として、フィクションのアイディアを試し、現実化するプロセスに興味をそそられた。しかしさらに、このことを『日の名残り』を例に説明するのを聞いて、また別の個人的な関心も湧いた。

《『日の名残り』は、私にとっても面白いケースだ。一石二鳥だったからね。イギリスの執事のイメージは、世界的に確立されていると思う。イギリスの執事に会ったことがない人でも「厳格で礼儀正しい」という典型的なイメージを持っている。

 私はこれを二つのメタファー(隠喩)に使えると思った。完璧な、二つのメタファーになった。一つはある程度誰もが持つ、感情を表すことへの恐れだ。愛や友情、人との関係の中で感情をあらわにして傷つくことを恐れている。職業人に徹して感情を封じ込めた方が傷つかず、安全な時がある。その意味で執事は「感情の抑圧や恐れ」の比喩にぴったりだ。

 同時に別の意味でも、執事は完璧な隠喩になると思った。「政治権力に対する私たちの関係」の隠喩にだ。私たちの多くは大統領でもなければ、有力な政治家でもない。(中略)ただ仕事をして、雇い主に、雇用先の企業に、国家に、大義に貢献するだけだ。そして、その貢献が役立つことを願う。自分の仕事を全うして、自分のプライドや尊厳を保っている》

 この話を聞いていて、自分が編集者になったのも、この執事の隠喩と似たようなものがある気がした。個人的な感情を出したいのだが、誤解される恐れがあるし、受けとめてもらえるとは限らない。そのことで傷つくよりは、個人的な感情を封印し、著者の黒子に徹して、編集者として仕事を全うすることで尊厳を保ちたい。当時、そんなことをはっきりと考えてはいなかったけれど、どこか腑に落ちるものがある。

 肝心だと思うことほど伝わらない。生きることには、大げさな言い方になるけれど、成功するとか没落するとかいった浮き沈みとは異なる意味があるはずなのに、内面的な充足などまるっきり関係がないかのように、自分自身に対しても、他人に対しても、深いところで耳を傾けることがなく、表面的な暇つぶしで時を過ごしていく。
 また、大学に入る前に小さい頃からずっと仲の良かった兄弟と仲違いしていた。真意が伝わらない。しかし、どう表現していいのか、何を言いたいのかさえも、はっきりとはわからない。そういうもどかしさや寂しさが心残りとしてあったのだと思う。
 要は、日常のコミュニケーションの実りの無さや不自由さに、心底がっかりして別の道を探ったのだろう。大切なことが伝わらない、だから本の世界で、その思いを晴らそうと。

 しかし、二十数年、版元で編集者をやってきて、その会社を辞め、独立するにあたって、お世話になった著者の方々へ挨拶の手紙を書いている時、一冊一冊、本をつくる仕事を通じて、著者と心が通じた瞬間がいくつも浮かんできた。

 本の中身を作っていくやりとりでは、ぶつかったり、誤解したり、そもそも、いつまでも原稿が上がらないなど、思うようにならないことが多かったのだが、何度も書き直してもらった原稿が上がり、それを読んだ瞬間に「ああ、わかってくれたのだ」と、心が通じたことを感じた。あるいは、この本をどういう意図をもって書くか、その目的を対話しているときに、同じテーマを互いがそれぞれに求めていたことに気づき、これまでのお互いの人生が交差しているような深い縁を感じた。

 そういう瞬間を思い出して感じたのは、やはり、この仕事をやってきて良かった、シンプルに有難かったという気持ちだった。納得のいく良い本を出し、幅広く読まれることを願ってこの仕事をしてきたが、その役割を終える際には、むしろ、仕事を通じて人と心が通じた瞬間こそが大切だったのだ、だから、自分にとって編集というのは、その人の真実に触れる仕事だったのだと気づいた。

 封印したつもりだった感情が、当初の目論見とは違った形で蘇ったような気がする。肝心なことほど伝わらない、どう表現していいのかわからない、だから、本という言葉の世界で思いを果たしたいと思っていたが、その実、本を作るという仕事を挟んで著者と真剣に向き合うことで、これまでのお互いの人生が交差し、心が通じていた。

 番組の最後に、カズオイシグロは「なぜ小説を書くのか?」というテーマに戻り、こう言っている。

《歴史書やジャーナリズムでは、状況を伝えることはできる。例えば、ある時代では、ある場所で飢えに苦しんでいたとしよう。だが、その苦しみ、飢饉のせいで、愛する者や子どもを失った苦しみは伝えられない。ある時代のある町のある場所で、人々は飢えに苦しみ、死んだという事実だけでは、人間は不十分だと感じるのだ。私たちは「どう感じたのか」を伝えてほしいのだ。どうしてかわからないが、それが人間の本能なのだと思う。それが真実というものだ》

 編集者をどのような「隠喩」とみなしていたかは別に、二十年以上やってみた「実際」は、その人の物語に耳を傾け、表現のプロセスを共にすることを通して、その人の真実に触れる仕事をしていた、ということになる。
 結局、自分が大切にしたいのは「心が通じる」ということだ。では、「心が通じる」とはどういうことなのか。それを次回以降、考えていきたい。

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