浮世離れ

 前回、これ以降は「心が通じるとはどういうことか」を書くと言ったものの、なかなか難題なので、迂回して少し別の話をする。

 編集者は人を見るのが仕事なので、その人物が醸し出している「ある感じ」を掴んで、ひと言でいう。以前、先輩筋の編集者から「石井さんはなにか浮世離れしていて、面白いなぁ」と言われたことがある。食事をしていた時なので、「話が抽象的だよ」とやんわり窘められたのだと思うけれど、それはそれとして、「でも、たしかに、そうかもなぁ」と後で思った。

 そう言えば、ある出版プロデューサーは傷つけないように言葉を選んで「石井さんのその哲学的な感じが~」と言っていたし、別の出版プロデューサーには、しばしば冗談半分に「仙人扱い」されてきた。自分が醸し出している「感じ」は自覚しづらいので、言われてみないとわからないのだが、周りはとっくに知っているのだろう。ちなみに、この中では「浮世離れ」が一番ピッタリな感じがする。

 こんなことを思い出したのは「浮世離れしていて、仙人みたいに物欲が乏しく、哲学っぽいことが好きな編集者が一人いたって別にいいんじゃない? どう思われようと、どう思おうと、少なくとも社会的には、そういう人物なのだから」と自分の個性として受け入れ始めているのだと思う。

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 最近、小説家が書いた小説についての本を読んでいるが、保坂和志さんによれば、小説は「社会化されていない部分をいかに言語化するか」が攻めどころだという(『書きあぐねている人のための小説入門』中公文庫)。

 この考えは気に入ったというか、必ずしも主流とは言えない著者の表現を支援しようとする自分の仕事を捉えなおす意味で、参考になりそうだ。以下は、本の冒頭にある「小説とは何か」を最初に語っている部分の引用。

《(小学校の卒業文集で)全員がそろいもそろって、「桜が満開のなかをお母さんに手を引かれて歩いてきた六年前が、昨日のことのように思い出されます」「四月からは希望に胸をふくらませて、中学校に進みます」なんてことを書いている中で、W君だけはこう書いた。
「四年のとき ながしの すのこで ころんで つめを はがして いたかった。」
(中略)
 卒業文集にはどんなことを書くべきか、生徒は全員わかっていると先生は思っていたはずだし、現にW君以外の子どもは先生が期待した通りの作文を書いた。しかし、W君にはそういう〈コード〉が通じていなかった。そして、それでも何かを書こうとした彼は、「四年生のとき、流しの簀の子で転んで、爪を剥がして痛かった」ことをもっとも強烈な出来事=書くべきこととして思い出したのだ。小学校の卒業文集の中で、小説の書き出しに使えるものがあるとしたら、これだけだ。
(中略)
 ここで「小説とは何か」について、最初の答えが見つかったはずだ。
 それは、小説とは〈個〉が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ》

「流しの簀の子で転んで、爪を剥がして痛かった」という話は、それ自身では優れてもいないし普遍的でもないし、コードに合わせ、適応的であることを良しとすれば、そんな馬鹿なことは誰も書かない。ただ本人にとって強烈な出来事だったという意味では個が立ち上がり、「表現」という世界が初めて開けてくる。

 自分としては、小説に限らず、言葉で表現するということは、我々が自分の内側に強い体験(=強烈な出来事)があることに気づき、それを良い悪いではなく受け容れ、言葉という社会的な器に載せることを通して、肯定していくということなのだと受け取った。

 自分の中にある未表現の部分を、別に否定しているわけではないのだが、言わないようにしていることは、それ自身の運動として否定に傾く気がする。認知的には、そういう部分を受け入れていない、忌避しているということになってしまうから。特に、それが強烈な出来事であればあるほど、言語化しがたく、自分を翻弄するカオスとしてそこにあることになるから。

 詳細は省くが、自分が「内でもなく外でもない立場で人をサポートする」ことが多いことに最近、気づいた。考えてみれば、言葉で何かを表現するという行為は、まさに「内と外の境界」で起こるのであって、何事かを創造する、つまり自分を越えていくというのは、いつもこういう領域で起こっているのではないか。そして、そこにはいつも未表現のカオスがある。

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