「違うこと」について

 「違い」って何だろう、とたまに考える。

 「発酵と腐敗」の違いって何だろう。人間に有益かどうかで決まっているらしい。
 「蝶と蛾」の違いって何だろう。植物などに留まるとき、羽を広げるかどうかで決まっているらしい。
 どちらも、人間から見た解釈で、違いが規定される。

 さらに思考の歩を進めて、「理解と差別」の違いって何だろうか。
 発酵と腐敗の例に同じく、これらは人間にとって有益かどうか、という基準で違いが認められているようだが、実はこの二つ、本質は同じかもしれない。違いは紙一重。境界線は曖昧。

 人は、何か新しい情報に触れる時に、それを自らの既有知識の中に位置付けることで、理解をする。自分が知っている物事の中から任意のものを選び、比較し、「同じだ」とするか「違う」とするか決め、その物事と自分との距離を確かめる。思考には欠かせない過程であるが、これはそのまま差別の始まりになりうる気がする。
 「日本人は・・・」とか、「この時代の人は・・・」とか、個々の事情を無視し、簡略化して理解していくこと。別の言い方をすると、これは「レッテル貼り」ではないだろうか。

 さあ、困ってしまう。よかれと思ってやっていったことが、誰かを傷つけてしまうかもしれないのである。かといって、「差別につながるかもしれないから理解することを捨てよう」というのも、まあ無理な話だ。
 「危険性を知った上で、適切に取り扱ってみよう」というのが今のところの結論である。私たちが、火や、包丁や、自動車を用心深くかつ便利に扱っているように。
 差別は理解に似ているという前提の上で、どこからが差別なのか、アンテナの感度を高く設定して敏感に感じ取る必要がある。これまで自分が良いものだと理解していたものに対して、絶えず点検を行う。今まで自分が得てきたものや成功してきた体験でさえも、時には自分の肩から降ろしていく必要がある。
 そしてそのためには、差別思想を排除・無視するのではいけない。自分が目を背けたいようなものに向き合い、議論と分析をし、差別が何故生まれるのかを考える必要がある。差別思想を撒き散らす人を見たら、「なんでそんなこというんだ、最低」という理解をするのではなく、対話することが重要だ(もちろん、共感はする必要ないし、こちらに余裕がない時は何も言わず距離を置くことも大切)。

 理解したり、それを点検して取り外したり、理解できないものをそのままに向き合ったり、事象に対して柔軟な格闘を試みたい。

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