見出し画像

トリビュート Op.1 時間の経過という残酷な試練に耐えるということ

奈良に行った時のこと。

法隆寺五重塔の前で、そのオーラに圧倒された。自分の動物としての直感が、「これはマジでヤバいものだ」と告げる。

それが千数百年前の飛鳥時代からそのまま残っている世界最古の木造建築だ、ということを当然知ってはいるが、そういった予備知識ではなく、本能に訴えかけてくる凄みのような何かがある。

「法隆寺は今そこにあるだけで尊い」。そう感じた。

なぜそう感じ、圧倒されるのか。

しばらく考えないと答えは出なかったが、「時間の経過という試練に耐えて生き延びられたものには価値がある、と人の本能にプログラミングされているから」ではないか、というのが私がたどり着いた結論だった。

どういうことか少し説明させてほしい。

人類の長い歴史を考えると、今のように文化的に生活できるようになったのはほんの最近で一瞬に過ぎず、人類はほぼずっと生き延びることだけで必死で、公園の鳩のように食べ物を探し、外敵から逃げるだけで1日が、あるいは人生が終わっていたはずだ。

長生きできた人は、とてつもなくラッキーな人だけだっただろう。

そして、長生きな人はそもそも幸運の持ち主として尊敬されただけではなく、文字がなかった時代には、長く生き延びられた人だけが、過去の歴史とそこから引き出される教訓を知っていたことで尊敬されたはずだ。

なぜなら彼らが持つ知識と教訓の価値が、今からは信じられないぐらい高かったからだ。

たとえば今の我々にとっては、「大きな地震が起きたら高いところに急いで向かえ」というのは常識だ。だが文字がない時代には、年寄りしかそんな大事なことは知らなかったはずだ。「滅多に起きないけど直撃食らったらマジヤバいイベント」を生き残った人しか知り得ない知恵と教訓だからだ。そんなイベントは生きている間に何度も起きないし、「死人に口なし」。

年寄りの教えをちゃんと聞いて信じ、正常性バイアスに負けずに夜だろうが雨だろうが雪だろうが急いで高台に避難できた人だけが、最悪のイベントを乗り越えて生き延びることができた。

想像してみてほしい。生き延びられた人が、自分の集落に押し寄せる怒涛の津波を高台から見て、年寄りとその教訓にどれだけ感謝しただろうか。

こう考えると、人が長く生き延びたものの価値を直感的に高く評価する理由が理解できる。

人類は長い歴史の経験から、時間の経過という試練に耐えたヒトやモノは尊い、と理解していて、それが今でも我々の記憶に先天的に刻まれているのではないかということを五重塔は教えてくれた。

文字ができたおかげで情報が蓄積できるようになり、多くの教訓が時間を超えてより多くの人に伝わるようになった。SNSでは「ライフハック」が溢れている。

そして「古いものは今の変化の早い時代についていけていないのでイケてない、新しいものの方がいい」という価値観も当然ある。

そのため、我々は時間の経過という試練に耐えたものだけが持つ尊さをやや忘れがちになっているかもしれない。

一般に、新規開店したバーは3年後には半分強以上が閉店するという。6年後まで生き残るのは4つに1つ程度だそうだ。

バブル崩壊。リーマンショック。東日本大震災と原子力災害。コロナ。さまざまな外的ショックを乗り越えて、25年、30年と続いているお店はバケモノとしか言いようがない。

だがそれらのお店が今も続いているのにはちゃんと理由があるのだ。

厳しい試練を乗り越え、長続きしているというその事実は、インフルエンサーが発するどんな褒め言葉よりも雄弁に語る。

3年続いた店があと5年続く確率よりも、30年続いた店があと5年続く確率の方が圧倒的に高い気がするのはそういうことだ。

そんなお店に対するリスペクトを私は忘れない。





お読みいただきありがとうございました。あなたのシェアが、ほかの誰かの役に立つかもしれません。 「参考になった」「共感できた」という方はSNSなどでシェアをお願いします。 また太っ腹なサポートも、自分が書いたことがどなたかの役に立ったことがわかり、とても励みになります。