垣内俊哉

障害を価値に変える「バリアバリュー」という理念のもと、株式会社ミライロを経営しています…

垣内俊哉

障害を価値に変える「バリアバリュー」という理念のもと、株式会社ミライロを経営しています。車いすに乗る高さ106cmからの気づき、過去や未来に向き合うこと、日常などを書きます。

最近の記事

江戸時代もバリアバリュー

障害がありながら将軍を務めた9代目の徳川家重と13代目の徳川家定。家重は重度の脳性麻痺で言語障害もあったとされる。自身の限界を知っていたからこそ、身分に関係なく優秀な人を重用した。 側近の大岡忠光だけが家重の言葉を聞き分けた。将軍就任から15年、家重は忠光らとともに時代を駆け抜ける。忠光が亡くなるとすぐ、家重は将軍の座を息子へ譲り、1年後、忠光を追うように逝った。 15人にいた徳川将軍の内2人が障害者であったことは、人口統計における障害者の数と乖離しない。幕府という強固な

    • 楽観という真の勇気を持つ

      前著「バリアバリュー」、新著「自分の強みのみつけかた」で触れた、エンデュアランス号が発見されたそうです!アーネスト・シャクルトンを知ったのは、2013年の春のことでした。僕が心肺停止で生死を彷徨った後です。 「三途の川がバリアフリーでなかった」ため、ありがたいことに生還しました笑。でも、一向に状況は好転せず、ベッドの上で先の見えない日々を過ごしました。 ▶三途の川はバリアフリーじゃなかった(前編) ▶三途の川はバリアフリーじゃなかった(後編) その時に読んだシャクルトン

      • 車いすユーザーの日常

        この数ヶ月で印象に残った出来ごとのいくつかを書き残しておこうと思います。ユニバーサルマナーやバリアバリュー、社会のあり方を考える、小さなきっかけになれば嬉しいです。 お隣のご夫婦昨晩の地震、久しぶりに不安でした。車いすだとどうしても、逃げ遅れるリスクがあります。もっと入念な準備が必要だと感じました。 地震直後、お仕事をさせて頂いている方数名から、安否確認の連絡を貰いました。同じくして両親からも連絡があり、父と母が今なお健康でいてくれることへの感謝を感じつつ、お客さんにまで

        • 新たな10年に向けて

          ミライロが掲げるバリアバリューの実現に向け、心強い応援団が集まりました!! 創業から今日まで、十分な成果は得られていないかもしれませんが、多くの人、企業からたくさんの共感を寄せて頂いたことはミライロの誇りです。これまでを振り返るとほんの少し波乱万丈でした。いろんなものがこみ上げて昨晩はちょっと泣きました。 2009年:大学2回生で創業。会社設立1年目の売上は126万円。副社長との極貧ルームシェアは4年に及ぶ。 2010年:飛び込み営業ハイ。結局、大きな仕事には繋がらなかっ

        江戸時代もバリアバリュー

          コンビニの入り口で、あの時、立ち止まってくれたあなたへ。

          コンビニにて。黒のワンピースを着た女性が、店を出ようとする僕とすれ違いざまに入店。 なぜか自動ドアの近くで棒立ち。視線の先はどうやら店内。不思議に思っていると、僕の車いすが自動ドアを通過した後、再び歩きだして店内へ。 ハッと気づく。ドアが閉まらないようにしてくれたことを。気を使わせないように、見てるか見てないかわからない感じで、なんともさりげなく。 スマート過ぎるユニバーサルマナーに感激した。店内に戻ってお礼を伝えようかと迷ったけど、せっかくの粋な計らいに対して、なんだ

          コンビニの入り口で、あの時、立ち止まってくれたあなたへ。

          病室支店へ異動します(再任)

          2013年、心肺停止で三途の川を渡りかけました。 ▶三途の川はバリアフリーじゃなかった(前編) ▶三途の川はバリアフリーじゃなかった(後編) 2016年、半年もの間、病室支店で勤務しました。 ▶病室支店へ異動になった時のこと 社員にはたくさん迷惑を、皆さんにはたくさん心配をおかけしました。 そして、節目節目で考える時間を得たことは、成長の糧となりました。 2019年。 想定外でしたが、もはや恒例行事のようですm(__)m 4年に1度のオリパラ、3年に1度のオペ入院!

          病室支店へ異動します(再任)

          日本は世界一外出しやすい。でも、外出したくなるかは別

          先日、出演した朝まで生テレビ。僕が伝えたことについて、多くの反響があった。深夜かつ長時間の放送だったのに、とってもありがたく思う。 「日を間違えた」「見逃した」「寝た!!!」という方々のお声に応え、放送中にお伝えしたトピックを、僕が覚えている範囲で書き留めておきたい。 ■障害者の歴史1 徳川家9代目の家重と13代目の家定には障害があった。世襲制度や強固な官僚制度があったからこそだが、300年前から障害者は大切に生かされた。日本はバリアフリー化の歴史も長く、戦後から少しずつ

          日本は世界一外出しやすい。でも、外出したくなるかは別

          車いす、新幹線で一人。不安がゼロになった神対応

          大阪から東京へ向かう最終の新幹線。 満席で11号車の12B、13B席が埋まっていた。つまり、車いすを置ける席が無かった。 仕方なく、デッキに車いすを畳んで置いて、伝い歩きで車両中央の座席へ。ドアが左右交互に開くことから、デッキの車いすが乗り降りする人の邪魔になる。だから、こういう時は車掌さんにその旨を伝える。 いつもと同じく、車掌さんに声をかけた。「すみません、車いすをデッキに置かせてもらってます」「かしこまりました。どちらで下車されますか?」「ありがとうございます。降

          車いす、新幹線で一人。不安がゼロになった神対応

          夢は諦めてもいい。死ぬことすらできなかった自分へ

          死ぬことすらできなかった僕は、骨が弱く、折れやすい身体で生まれました。 骨形成不全症という、2万人に1人の割合で発症する病気です。 これまでに骨折は20回以上。手術も10回以上は受けました。 幼稚園から小学校低学年の頃まではなんとか歩けました。 でも、小学校4年生になった頃から、車いすを使うようになりました。 歩きたい。みんなと一緒に走りたい。 そう思い続けて高校生になった僕は、休学し、自分の意志で手術を受けました。 結果。 自分の足で歩くことは、叶いませんでした。

          夢は諦めてもいい。死ぬことすらできなかった自分へ

          病室支店へ異動になった時のこと

          以前、2013年に入院していた時の記録を書いた。 実はその3年後、2016年に僕はまた手術を受けることになった。 でもこれは前向きな手術で「数年、数十年後、心配なく走り回れるために、メンテナンスする」ために行うものだった。 そうは言っても一度心肺停止をしてしまったので、今度もまた社員には心配と迷惑をかけるだろうな……と思っていた。 でも、僕よりも、写真の方が僕のことに慣れていた。 入院をする11月付で、ミライロの代表取締役社長 兼 病室支店の支店長に任命された。 こ

          病室支店へ異動になった時のこと

          三途の川はバリアフリーじゃなかった(後編)

          2013年5月11日食事量が増えた。 食事と言っても、鼻から入れる栄養剤だけど。 最初は、200mlずつ、それが400mlずつに増えた。 そして、栄養剤が流動食に変わった。 これは朝食。 昼食は味噌汁に、夕食はスープになる。 どれもこれも具はない。味も極度に薄い。 それでも、初めての流動食で、味噌汁を飲んだ時、「うめえー!」と、思わず僕は唸った。 9日に、きつい処置があった。 骨を固定するためのネジを8本、局所麻酔で打ち込むというものだった。 麻酔が切れると、痛みに

          三途の川はバリアフリーじゃなかった(後編)

          三途の川はバリアフリーじゃなかった(前編)

          2013年、僕は手術のために入院していた。 心肺停止に陥り、生死の世界をさまよった。 これは、当時の記録だ。 2013年4月24日入院当日。 朝、すっかり寝坊して、準備に手間取り、出発が出遅れた。 手術後、僕はしばらく喋ることができなくなるらしい。 社員の洞田が誕生日プレゼントにと、おしゃれな筆談グッズをくれた。 彼も朝が弱いのにちゃんと起きて、渡しに来てくれて嬉しかった。 病院に到着し、早々に手続きが終わると病院に案内された。 病室は驚くほど雰囲気が暗く、早速、気が滅入

          三途の川はバリアフリーじゃなかった(前編)

          久しぶりに、生きることが辛いと思った日

          「車いすで生きることって辛いんだな…」 出張先のミャンマーで、久しぶりに感じた。 二十数年生きてきて、いろんなことがあった。それでも、辛いと思うのは、久しぶりだった。なにが辛かったのかと言えば、一人では外に出られないことだった。 滞在先はミャンマーの旧首都、ヤンゴン。旧首都とはいえ、歩道は舗装されていない場所が多く、至る所に20センチ程度の段差があった。同行したスタッフがサポートしてくれたけど、彼なくしては1人での外出は到底不可能だった。 ミャンマーでは、5日間の滞在期

          久しぶりに、生きることが辛いと思った日

          それも一局、これも一局

          最初の決断進学、就職、転職、家の購入や結婚、離婚。人生には、人それぞれ幾つもの岐路があり、大きな決断をしなければいけない時がある。 僕にとっての最初の決断は、17歳の春のことだった。足で歩けないことを悲観的に考え、障害の克服を目指していた。高校を中退し、手術を受けた。朝から晩までリハビリ漬けの毎日が、僕の青春になった。甲斐も虚しく、歩けるようにはならなかった。 その後、自ら命を絶とうとするも失敗し、僕は死ぬことすら許されず、仕方なく生きる日々を過ごした。僕にとっての初めて

          それも一局、これも一局

          カバンノナカミ

          テレビや新聞に露出する機会が増えて、「オレンジ色が好きなんですか?」と聞かれることが増えた。 名刺もオレンジ、ネクタイもオレンジ、車いすもオレンジ。出版した書籍の表紙もオレンジ。 オレンジを選ぶ確固たる理由はなく、聞かれてもいつもうまく言葉が見つからずにいた。 カバンを開けば、パソコン、スマートフォン、ボールペン、イヤホン、ポーチ、財布。 気づけば、身の回りのあらゆるモノがオレンジだらけになっている。 病室支店入院すると病院では、腕に識別バンドが付けられる。 昔から、これが

          カバンノナカミ

          チキンでも武道館でそれなりに笑いをとれた日のこと

          2013年の1月、武道館という大きな大きな舞台のステージに立った。 「8,000人にプレゼンって緊張したでしょう?」とよく聞かれる。 確かに緊張した。でも、それは「8,000の人がいること」ではなかった。 スタッフと徹夜で考えに考え抜いた一言一言を、丁寧に、正しく伝えることができるかで必死だった。 リハーサルでは、一回も成功したことなかったのに、本番は噛むこともなければ、目配せ、身振り手振り含め、僕にとっての「奇跡のプレゼン」が実現した。 そして、ありがたいことに8

          チキンでも武道館でそれなりに笑いをとれた日のこと