想像を絶する/対話篇・演出ノート‐3

想像を絶するに加えて対話篇の稽古もはじまった。対話篇の根幹は一度やった時に出来ていて、それを変えることに意味のある作品ではないな、と思っているので、根幹は変えていないが、表面の演技、質感のモードに対する要求は、やはり私の中身の変化なのか、結構違うことを言っているなと自分でも思う。対話篇は演劇の一番単純な原理をドラマにできないか、と思って作った作品で、ドラマはあるが、シンプルなので、個人的には見やすいと思う。かわいらしさ、愛嬌のようなものが芽生えていれば、嬉しい。と、同時に挑発的な部分も備えている。驚くひともいるかもしれないが、最後まで見て欲しい。

想像を絶するの方は佳境に差し掛かっていて、突破口が見えた気がする。粘り強く戯曲に取り組む醍醐味のような稽古をしている。前言った通り、役者が演技を出力するその過程そのものを抽出するような、スリリングな上演になりそうだけど、鶴田理紗さんは持ち前のユーモラスな質感があるので、それも生かしたものになる予定です。緊張感のある濃密な45分にしたい。

二つの作品とは直接関係のない話になるが、これは哲学シリーズということになっているし、私が以前から考えていることをまとめたいのだけど、まとめるのが苦手だからとりとめなく書くことになる。

私はダンスが怖い。私はダンスだけの公演をほとんど見たことがないのだが、見るのが怖い。私は、自分の身体に対するコンプレックスのようなものを持っているとあまり思ったことはこれまでなかったのだけど、生理的に、誰かの心を動かす身体に対する恐怖、忌避感を持っている。ダンサーは基本的には踊ることのできる人だ。踊ることで表現する人だ。でも、その身体を使った表現を見て、それにやられて、感動させられてしまうのが怖い。私は出来れば強く感動したくない。強い感動をして理性を失った状態にさせられたり、考えを変えられてしまうのが怖い。そんな強度で殴るようなものはただの暴力じゃないか、と言いたくなってしまう。感動というのは脳の、肉体の反応に過ぎず、ただの感情の発生に過ぎず、そんなものに自分を左右されると言うことが、考えてみると私にはかなり気持ち悪く、恐ろしく、我慢ならないことのように思う。私はできれば冷静なままで、理性を保ったままで(その理性というのも結局はこの身体から発生している意識のことでしかないのだけど)物事を見つめたい。一瞬でも、考える力を失って、考えられなくなってしまうのが怖い。感動させるなら、感動させると言うことの暴力性を見つめなければ、だめなんじゃないか。同じように、うまい演技というものも怖い。その演技を可能にする身体が怖い。演技というのは意識のコントロール、意識による身体のコントロール、身体による意識のコントロールでもあって。そういう半ば強制的に他人に干渉する能力を持った身体が怖い。プロボクサーの肉体が凶器であるのと同じだ。私の中では、ダンスの方が、肉体の重要度、プロフェッショナル度が高いので、ダンスの方が暴力に近く、怖い。それは他人の肉体を自分の肉体によって変えてしまうということだ。自分でやるなら、そういう怖いものを無自覚に使いたくないし、なるべく頼りたくない。それは暴力なんだ、ということをわかって使いたい。コミュニケーション、他人への干渉というものは、いいものであれ、悪いものであれ、やっぱり暴力だと思う。私はできれば、暴力は暴力と分かって提示したいし、なるべく、理性によって、考えることによって、見ることのできるものをつくりたい。いい(とされる)影響、を他人から与えられるということだって、私には恐ろしいことなのだ、ということをきちんと言いたい。もちろん、多くの人間がそうであるように、私は矛盾を抱えていて、今書いたようなことは、刺激の少ない、優しい演劇をつくりたい、というようなことではなく、いつか、見た人間がみな根源的な恐怖に震えおののき、自己の存在を強制的に破壊されるような演劇を作りたい、と同時に思っている。それは極めて個人的な体験に由来する私怨だが。

身体というものについて、私は望まないのに暴力的に与えられたもの、という認識が、根本の『命』とか『意識』というものに対する認識もそうなのだけど、ある。肉体というもの、生命というものは、病気そのものだ。こんな煩わしいものがどうして付いているのかわからない。でも、その煩わしいものを通してしか、今のところ私たちは物事を考えることができない。出来れば使いたくないし、関わりたくない。こういう身体というもののおかげで、私たちはいろんなものを感じられているからそれをありがたがる、というのも、私は納得いかない。私たちには身体というものしか与えられていないから、それによって享受する喜びをただ受け入れる、というのは、納得いかない。だってそれしかなかったんだから。私の認識では、私が喜ぶとき、私は身体によって、意識によって『喜ばせられている』、ということになる。私は意識や肉体、私に備わっているものの中で、本当は私の自由になるものは一つもないのだと感じている。同時に、私の運命、私の置かれる環境を本当に私が自由に選ぶことはできない。その相互作用によって私というものがつくられるのなら、私の自由意志なんてものは存在しないんじゃないか?と思える。すべて人の責任にしてもしょうがないと言う人もいるかもしれないけど、便宜上私の体や意識は私の持ち物ということになっているから、私がその責任を負うことになるけど、そもそも、私の中で本当に私の責任を所有することなんて、できるのか?ということだ。

強い身体や弱い身体、さまざまな身体があるけど、1000年後とか、3000年後には、(まあその時まで人類というものが残っているとしてだけど)そういうものもロボット、アンドロイド、何でもいいけど人間以外のもので再現できるようになっていると私は思うので、人間だけの強みだと思っていられるのは、長くてもあと1000年ぐらいのことだろう。ロボット演劇というものだって今もあるみたいだけど、それだってロボットと人間の間に差異があるから、見ていられるんじゃないだろうか。そのうち完全に人間の代替としてロボットが使えるようになれば、そういうものは時代劇と同じようなものになっていくんじゃないか。技術の進歩はどんどん早くなっているし、それより早くそういう時代が来ることだってあり得る。ミスをする身体とか、身体の持つランダムな要素、不確定な要素さえ、再現できるようになるかもしれない。絶対機械だって考えるようになる。そうしたら、演劇の、表現の役目って終わってしまうんだろうか? 機械だけの表現だって出来てくるだろう。人間という存在だって、どんどん変質していくだろう。そうなったとしても、私は演劇を、表現をやっていたい。そういう1000年後の時代のことも考えながら、やっていきたい。今から、1000年後に向けて準備していかなきゃ、絶対その時が来た時に間に合わないと思うからだ。

身体の持つ強さ/弱さにひとつも頼らないことはたぶんできない。今私たちはとりあえず身体でやっていくしかない。でも、頼らないとできないのだとしても、そういうものが私たち人間唯一のものだ、と無条件に信じながらやることは、私にはできない。

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Kouki Tokuchi

哲学シリーズ

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