対話篇/演出ノート#6

SFと呼ばれるジャンルのような作品を過去二作つくったのだけど、それはゾンビやサイボーグとかクローンとか呪いとか戦争とか、出てくるワードやガジェットが、そもそも未来感があるようなものを使っていたんだけど、でも、演劇はそもそも、昔の物を時を越えて再演できる時点で、SFだと私は思うし、目の前にいる人が、例えばハムレットでないにも関わらず、ハムレットとして扱われ、ハムレットとして言葉を発するのも、十分SFだと思うから、わたしの中で演劇というジャンルとSFというものはかなりエリアが被っているような感じがする。

わたしの極私的な使い方で言えば、SFというのはジャンルというより、わたしの中で、ある(架空の)仮定に基づいて時間や空間や生命の在り方を捉えなおそうとするような考え方の方向性のようなもので、だから、わたしにとって演劇という思考法はSFのような感じをもたらしている。

今回の「対話篇」はそのようなガジェットは出てこないけど、私的にはやっぱり思考方法はSF?ゲーム?とか私の頭の中にあるフレームを使って施行されていると思う。

そもそも、人間が、人間の役を演じるということって、実はかなり変なことなんじゃないかと思っていて、そこには再擬人化みたいな感じの、奇妙な、演劇の世界だけで通じるバイアスというか、ある種の類型的な演技の中に存在する性格のバリエーションがあって、それは拡張現実というよりも、縮小現実的な、リアリティの減衰があって、そういう感じも、バーチャルというか、そのような質感をわたしは感じる(そこに興味がある)なあ、と今日、稽古をしながら思った。空想される、人型のロボットというのは、例えば、《機械の擬人化》なのだということ。でも、ある種の物語のタイプの中で、擬人化された機械が感情を持とうとするのは、擬人化という強いバイアスがかかっているからであって、そもそも人型でなくても、動物でも何でも、意識を擬人化して捉える力が人間はすごく強い。他人も見ているだけで勝手に擬人化してしまう。でも、他人は自分と全く違う人間で、もしかすると人間ですらないかもしれない。

でも、人間であることがそこまで重要なことには思えなくて、千年後にはサイボーグ?人工知能?とかが発達して、人間と変わらない動きをして考える機械が出来ているかもしれないなあと考えると、人間的ということがそんなに大事なことには思えなくて、どうやって人間性を拡張して、その人間性の在り方が変わるであろう千年後に今から備えるかが大事なんじゃないかと思う。非人間的ということは冷たいとか残酷であると捉えられがちな気がするが、わたしはそれは安易な考えだと思うし(そもそも人間は冷たいし残酷だ)、人間的なものがイコール暖かいもの、善いものと捉えられるかもまた別な問題だと思う。わたしはどちらかというと、人間側ではなく、戯曲側、キャラクターが何をどう感じているか知りたい。

お布団の番外公演「対話篇」

原作:プラトン「クリトン」

脚本:綾門優季(青年団リンク キュイ)

演出:得地弘基(お布団/東京デスロック)

3/24(金)~28(火)@新宿眼科画廊地下スペース

予約ページ

詳細→お布団公式サイト

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Kouki Tokuchi

対話篇/演出ノート

お布団の番外演劇公演「対話篇」に関する演出ノートです。 /原作 プラトン『クリトン』/脚本 綾門優季(青年団リンク キュイ) /構成・演出 得地弘基(お布団/東京デスロック)/http://offton.wixsite.com/offton/--next
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