『破壊された女』覚書

『破壊された女』が終演した。少し今の記録を残しておきたかったので、大したことを書くわけではないが、何か書いておこうと思った。

ドキュメンタリー演劇という言葉の流行りになんとなく私は嫌な感覚を覚えていて、自分なりに、自分の納得できるドキュメンタリーのやり方をやってみようと思った。事実を扱ってみようと思った。また、戯曲の上演というより、レクチャー的な意味合いが、私のなかでは、強くなった。ある思想を元にした、実践としての上演。もちろん、今回やっている中で気付いたこともたくさんあるし、後から気付いたやりきれなかったこともたくさんある。様々な演劇のイメージを借りた。

今回だけの話ではないが、昔人づてに「バイトの身体で舞台に立つな」ということをある人が言っていたということを聞いて、正確な文面はもう何年も前なので思い出せないが、本当にそうか?ということを考えている。バイト身体で舞台に立つことはできないのか?では舞台に立つことは労働ではないのか?バイトじゃない身体ってなんだ?そうじゃない身体が私(や緒沢)にあるのか?さまざまなことをそこから考えた。私はあまのじゃくなので、技術とか鍛錬とか、プロフェッショナルな身体を追及することはあまり乗り気ではない。あった方がいいことはきっとたくさんあるけど、それがない人にもやれることをしなければいけないんじゃないかと思う。ゴミをゴミのまま見せて、それに誰も感動せず、しかし、そうであることが、了承されることができればそれが一番いいと思う。

ツイッターで書いたが、寝たきりの人が遠隔操作でロボットの身体を動かしてカフェで店員として働くという試みが行われたそうだ。おそらく未来では、寝たきりの人間がロボット身体で舞台で表現をすることが可能になるし、そのロボット身体の能力が、通常の鍛錬を経た身体を凌駕することは全然あり得ると思う。そうなった時、もう普通の身体の捉え方は意味をなさないと思うし、そういうことを少しは考えていかないと、何の意味もないんじゃないかと思う。私は千年後も演劇をしたい。

虚実は入り交じっているが、自殺したSも、発狂した後輩も、アルコール依存症で死んだ友人も、みんな、それぞれ私の現実に存在していた人たちのことだ。みんなのことを忘れたくなかったし、彼らのことを黙ったまま、私なりに幸せを探してゆくような行為は私にはできなかった。私は彼らのいなくなるところを見ていなかった。知らなかった。すべて人づてに聞いた。私は本当は彼らと共に死んだり、失踪してしまうべきだったと思う。夜勤明けの駅で見るホームレス。コンビニの前の汚い公園の小さな神社でお祈りしていた老人。

それから『彼女』のことはすべて本当だ。彼女に起きたことの語りは、彼女の登場するゲームのストーリーを彼女の側から、噛み砕いて、変換して、出力したものだ。知りたくなった人はダンガンロンパシリーズをプレイして欲しい。それから『彼女』を失った『女』のエピソードも、私の自伝的なものだ。当時の感覚を思い出しながら、書いた。でも、私個人の体験の悲劇の中にいる、私のセカイからいなくなったひとは、破壊された女で語られる『彼女』とは、別の彼女なのだが、彼女のことは、まだ私のなかに、廃墟になってしまったけれど、小さな石の部屋、クリスチャン・ケレツのつくった礼拝堂のイメージとしてまだあって、その彼女のことは、直接は語らなかった。

三章で直接的に語られる思想は、『彼女』たちと出会って、旗揚げの時から考えて、アンティゴネアノニマス-サブスタンスのころから、形になりはじめ、今も、私を苦しめ続ける、キャラクターのことだ。それから、アンティゴネアノニマス-フェノメノンで語ろうと思っていたがちゃんと語ることができなかった『魂』、『神様』の話を、ちゃんとしなければ、と思って、それを、できるだけ分かりやすく、私の実感を元に、語り直したかった。そのために『労働』という要素があった。今回は、あまり考えを『先』に進ませることを目的に考えず、ちゃんと伝わっていないことを、それでもできるだけ、自分の感覚を、今まで伝わらなかったひとにも、伝えなければ、と思った。もちろん、それまでの劇で考えてきたものはあくまで素材で、今回のことは、今回で書きながら、書くことで考えていった。感覚、イメージ、のような、考えの萌芽のようなものはあったが、それを、なるべく、言葉にしたかった。まだ神様がいるのか、いないのか、それははっきりとはわからない。

ただその思想のなかで、私はわざと明るいことを私なりに入れ込んでみたりはした。嘘というか、私なりにそうであるかもしれない真実ではあるが、それを断言してみることにした。本当はそんなことはないんじゃないか?という気持ちもあるけど、私はあえてそれを「ある」と言いきってみることにした。それはおそらく半分はフィクションだ。この話はおそらく悲劇ではあるけど、私は上演のなかで最初から最後まで絶望だけを言っているつもりはない。見方によっては、何か、世界の鍵となるようなものを入れ込みたかった。私は、この世界には何もなく、あらゆる希望はまやかしでしかないと考えているが、そうではない人がいるかもしれない。そういう人が、希望を見つけることができるかもしれない。私は私よりも遠くにいかなければならない。最初はこういう形の作品になるとは思っていなくて、いつもそうだ。結局、イメージにはたどり着けず、自分の作劇的な技術、時間的な制約、さまざまな実際的なことに追われ続け、自分がその時できる形でしか、作品をつくることができない。でも作ってしまったということは、この時、やらなきゃいけないものになったということでもあると思う。

私は常に社会の話ではなく、世界の話をしたいと思っている。しかし、世界は、常に社会の分厚いテクスチャーで覆われていて、私は、今のところ、社会の側からしか、語って、近付いていくことしかできない。

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Kouki Tokuchi

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